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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第36話  なりきる(2)
    

 前回の「なりきる」を坐禅によって行うとすれば、どのようにすればよいのでしょうか。

道元禅師は『普勧坐禅儀』(天福本)の中で「念起れば即ち覚せよ、覚すればすなはちこれを失す、久々にして縁を忘ず、自ら一片となる、これ坐禅の要術なり」と述べておられます。

意訳しますと「坐禅をしていて雑念が起ったらそれに引きずられるのではなくて、しまった雑念を起したな、と気付くのである。気付くことによって雑念は消えてしまう。このような坐禅を長くやっていると、やがて雑念は起らなくなり、主客が一つとなる。これが坐禅の要術である」となりましょうか。

しかし、このように説かれている道元禅師の『普勧坐禅儀』は、長蘆宗磧(宋代の禅僧)の『坐禅儀』を修訂するかたちで撰述されており、右の一節は宗磧の『坐禅儀』の一節がそのまま使われています。

そして、その後の『普勧坐禅儀』(流布本)ではこの一節が「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。これすなはち坐禅の要術なり」の如く全く別の文章で修訂されています。

こちらも意訳しておきますと「考えない状態(不思量底)を考え(思量せ)よ。考えない状態をどのように考えたらよいか。それは通常の考えでないもの(非思量)によるのである。これが坐禅の要術である」となりましょうか。

十分な意訳とはいえませんので、私なりの解釈をしてみます。まず「考えない状態(不思量底)」とは「一瞬」を意味していると思っています。一瞬の中でものを考えることは不可能だからです。また坐禅の中での話ですから「正しい坐相をした一瞬の自分の姿」を意味すると考えたらよいかと思います。それを「思量せよ」とは、「意識せよ」ぐらいの意味でしょう。しかし、一瞬だけで終るのではなく、次の一瞬も、その次の一瞬も続けます。それが「箇の不思量底を思量せよ」の意味かと思います。

一瞬、一瞬に正しい坐相をねらっているわけです。そこに雑念は入りようがありません。もし雑念が起ったとしたら正しい坐相をねらう一瞬をはずしたことになります。その時は、改めて一瞬、一瞬に正しい坐相をねらうことをやり直せばよいのだと思います。

このような一瞬、一瞬のねらいが「非思量」といわれるものでしょう。これが「正しい坐相になりきった坐禅」かと思います。ねらっている自分はそこにはありません。

天福本(及び宗磧の『坐禅儀』)の一節は説明的であるのに対し、流布本の一節は実践的です。一遍上人の第一首と第二首の関係と比較すると面白いような気がします。 (平成二十二年十二月)

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