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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第35話  なりきる(1)    

 「なりきる」ことを仏教では「三昧」(さんまい)といいます。梵語samadhiを漢字で音写したもので、「定・定慧・等持」などと訳されます。一般には読書三昧とか道楽三昧の如く用いられています。

仏教用語としての意味は「心を一つの対象に専注すること」をいいます。このことを純粋に達成するための方法が坐禅であります。

坐禅によって三昧を達成するわけですが、その三昧とはやさしい言葉で言えば「なりきる」でありましょう。しかし仏教でいう「なりきる」とは徹底的に「なりきる」のでなければなりません。どのくらい徹底的か、解り易い例話をご紹介致しましょう。

 それは時宗(踊念仏宗)を開いた一遍上人のお話です。一遍上人がまだ修行中の頃、念仏三昧の境地を体得するには坐禅を実修し三昧力をつけるのが近道だと気付かれ、心地覚心禅師のもとで日夜坐禅の行に励まれました。

努力のかいがあって、ある日、三昧とはこれだ、と自ら許せる境地に至りました。そこで、これを念仏三昧についての「唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏の声のみぞして」という一首の和歌にまとめ、禅の見解(けんげ)として覚心禅師に呈しました。

しかし覚心禅師は「この見解、一応わるくはないが、まだ不徹底だ。もう一度、工夫しなおしてこい」といってうけがいませんでした。

そこで一遍上人は再び猛烈な坐禅に励み、ついに「唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と改めて、これを呈しました。すると覚心禅師は「ウン、これならばよろしい。念仏三昧の何たるか、これで徹底したであろう」と一遍上人の見解を深くうけがい、一遍上人はこれを土台に時宗という念仏宗を開かれたということです。

では、一遍上人が呈した見解の二首は、どこがよく、どこが悪かったのでありましょうか。

上の句「唱うれば仏も我も無かりけり」は、仏とそれを念ずる我とが不二一如となっている境地が示されていますが、下の句「南無阿弥陀仏の声のみぞして」は、仏と我とが不二一如となった状態の念仏の声を聞いている自己が残っています。ここを覚心禅師は「まだ不徹底だ」といわれたのでしょう。

ところが二首目の下の句は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」です。この念仏の声を聞いている自己は消えています。自己が念仏となっています。これが「なりきる」でありましょう。

 武士道、茶道、歌道、俳句、能楽、水墨など日本の伝統文化といわれるものの根底にこの禅の「なりきる」があるように思います。おおいにアピールすべきでありましょう。(平成二十二年十一月)

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