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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第33話  六百回忌に思う    

 本年は当山の御開山不見明見禅師の六百回忌の年に当たります。不見禅師は応永十七年(一四一〇)六月三日、世寿六十四歳で亡くなられました。本年六月三日に六百回御遠忌の法要を厳修致します。

 考えてみますと、六百年もの間、お寺が続くということは大変なことだと思います。当山の場合、島根県温泉津町で約二百年、萩に移って約四百年になります。

お寺が続くということは、その必要性があるからであり、また、御檀家さんの支えがあるからでありますが、同時に御開山はじめ歴代の御住職方のご努力があってのことでありましょう。

そのようなご努力によって当山が今日まで続いているが故に、本年、御開山の六百回御遠忌のおつとめができるのだと思います。

この「ご努力」とはどんなご努力なのか、思いつくままに経典の説く所を求めますと、お釈迦様がいよいよ亡くなられようとするとき、嘆き悲しむ弟子たちを前に説かれたとされる『遺教経』に「憂悩を懐くこと勿れ。(中略)展轉して之(仏の教)を行ぜば、則ち是れ如来の法身常に在りて滅びざるなり。」(悲しまなくてもよい。皆が互いに私の説いた教を実践しさえすれば、私の本体は常に在るのであって、滅びることはない)と説かれています。

御開山はじめ歴住の方々はこのようなお釈迦様の教を実践してこられたが故に、今、六百回御遠忌がおつとめできるのだと思います。そのことに感謝のまごころを込めておつとめすべきでありましょう。

しかしながら、まごころを込めた感謝とは、単に御遠忌をおつとめすればよいというものでもないでしょう。

道元禅師は『正法眼蔵・行持』下巻に「その報謝は、余外の法はあたるべからず、(中略)ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし。いわゆるの道理は、日日の生命を等閑にせず、わたくしについやさざらんと行持するなり」(その報恩感謝の表明の仕方は、やるべきことをきっちりやって日日を大事に過ごすこと自体が報恩感謝の正しい道であり、それ以外ではない。日日を大事に過ごすとは、親からいただいたこの命は、仏として生きることのできる命であって無駄にすることなく、自分勝手な生き方は決してしないと心に決めて、やるべきことをやる日日を過ごすのである)と述べておられます。

すなわち、日日の生活を通して感謝を表明すべきであると仰っているわけです。

「日日の生活」は立場によってそれぞれでしょう。それぞれの立場から、先人に対する感謝の表明とは、先人が願っておられるような日暮をすることが、感謝の正道だというのです。 (平成二十一年五月)

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