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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第32話  舟と岸    

 道元禅師は『正法眼蔵』現成公案の巻で次のように述べておられます。

  「人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、舟のすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裡に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

 これを私なりに訳してみますと、

  「人が舟に乗って移動しているとき、目をめぐらして岸を見ていると、自分の乗った舟は動かずに岸の方が動いているように誤って見えてしまう。しかし目を岸から自分の乗っている舟につけると、舟の方が動いているのがわかる。これと同じように、私たちが身心について間違った考えを持って物事を判断していると、(たとえすべてのものは無常であるとわかっているとしても)自分の心だけは常住であると錯覚しているのが常である。そこでもし、仏祖の行われた通りに正しく坐禅をすることによって、外に向けていた意識を自分自身に帰して見ると、常住であると錯覚していた自分の心も無常であり、従って、すべてのものの無我なることも明らかとなる。」

となりましょうか。

 そこで禅師の言わんとされていることは何かを考えてみますと、私たちが普通に物を見、そして考えるとき、それは対象的に見たり考えてたりしています。

対象的に見たり考えたりするとは、主観(自分)が客観(対象)を見たり考えたりするということです。

この場合、主観は観察者ですから、判断基準を持つ不動なるものでなければなりません。

従って、よもや自分が動いているとは思わないために、岸が動いているように誤って見てしまうことになるのでしょう。

 仏教は「諸行無常」(すべては無常である)を真理として説きます。

確かに死の姿を見れば、自分の身体については無常を認めざるをえませんが、たとえ死んでも心は残るに違いない、いや残ってほしいと思うのが人情です。こんな思いから心の常住を錯覚するに至るのでしょう。

しかし「諸行無常」が真理であれば、わが心も当然無常であるはずです。これを体得しなければなりません。

だが、「無常」を自分が主観となり対象的に体得しようとしても、それは無理でしょう。

そこで坐禅の中で自分自身の心にある「今」に集中するのです。

「今」とはどんどん新しくなる無常そのものですから、それに集中していけば、心は自ずと無常となりましょう。(平成二十年七月)

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