このページは音声読み上げページです。下の[開始]ボタン(右矢印)を押すと、テキストの読み上げを開始します。([開始]ボタン(右矢印)が出ていない場合はここをクリックしてください。)
なるほど法話 海 潮 音
禅 第31話 今に集中する
前回、「今はどこにあるか」を問題としました。一応の結論として、「今」とは、現に生きている者が感じる自分の「今」ですから、そのような「今」は自分自身の心にあるはずだと申し上げました。
「今」を問題とするとき、もう一つ注意すべきことがあります。
それは、「今」とは、現に生きている自分が感じるものですが、自分が感じるのは常に「今」だけであるということです。
時間がどんどん経っているのに常に「今」だけであるということは、この「今」はどんな性格を持っているものなのかを考えてみなければなりません。
「常に今である」ということは、この「今」は永遠を意味すると早合点してはなりません。その全く逆で、常に「今」ということは、「今」は一瞬の停滞もなくどんどん新しくなっているということを意味するでしょう。
そのような「今」は、いわゆる「刹那無常」を意味するということです。
「今」とは自分自身の心にあり、その「今」は実は「刹那無常」を意味するとすれば、その「今」に自分の意識を集中し続けるという実践をしたとしますと、どのようなことになるのでしょうか。
このような実践は簡単に出来ることではないと思うのですが、私たちは「今」を確かに実感することができるのですから、不可能なことでもないと思うのです。
いま、そのような実践をしているとすると、恐らく「今」に集中すること以外に何かを考えるということは出来ないように思います。
もし何かを考えたとしますと、「今」はどんどん新しくなっているのですから、考えた途端に「今」からずれてしまうことになるでしょう。
「今」が「刹那無常」、すなわち「無常」を意味するとすれば、意識が「今」に集中している限り、心は無常に乗っていることになりますが、何かを考えた途端に心は「今」からずれてしまう、すなわち無常からずれ落ちてしまう、と考えられます。
無常から落ちるのですから、落ちた先は有常、すなわち常住ということになるのでしょう。
一応このように考えることはできますが、私たちが何を考えようと考えまいと、諸行無常ですから、すべては無常の中での話です。何かを考えて「今」からずれたからといって常住の世界に入るという訳ではないはずです。
ところが、私たちが言葉でものを考えている限り、「無常」ということが真に理解できず、特に自分の心については、常住であると錯覚しているのが常のようです。
その錯覚から覚める方法が、「今」に集中する実践なのではないかと考えていますが、如何でしょうか。 (平成二十年六月)
音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。