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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第 3 話  洗面    

一日の始まりは、夜中の午前零時ではなく、朝起きて顔を洗い歯を磨く時だと思っています。特に元旦の洗面は一年の始まりであり、心して行いたいものです。

ところで、この洗面の習慣を日本人がいつ頃から行うようになったのかご存じでしょうか。実は、これに我が曹洞宗の開祖道元禅師が一役かっておられるのです。

道元禅師の主著である『正法眼蔵』は極めて難解な仏教哲学書だと言われておりますが、その中に「洗面」という題の付いた巻がありまして、「仏祖の修証を保任するとき、用水洗浣、以水澡浴等の仏法つたわれり。(中略)澡浴を如法に信受するもの、仏祖の修証を保任すべし。」とあります。

意味するところは、用水洗浣、以水澡浴すなわち洗面とは、仏祖の修証すなわち仏の行であるという意味でしょう。このような仏行とは洗面に限ったことではなく、生きていくために必要な日常行為すべてを含んでいるとすべきと思われます。

ともあれ、洗面等の日常行為が仏行とされているところに道元禅師の深い哲理を読み取らなければならないのですが、今はごく皮相的に、次の文章に眼を向けてみます。

すなわち「震旦国は、国王、皇子、・・・百姓万民、みな洗面す。(中略)しかあれども、嚼楊枝なし。日本国は、国王・・・在家・出家の貴賎、ともに嚼楊枝・漱口の法をわすれず、しかあれども洗面せず。」などとありまして、震旦国すなわち中国では洗面の習慣はあったが嚼楊枝(歯磨き)の習慣はなかったのに対し、日本では歯磨きの習慣はあったが洗面の習慣はなかったと知られます。

これは道元禅師が1223年から4年間、中国(宋)に留学された時の様子ですが、これらの文章から、道元禅師は中国に日本の歯磨きの習慣を、また日本には中国の洗面の習慣を伝えられたと考えられています。禅師のこのような故事を知るとともに、私達自身の毎朝の洗面を仏の行として行えるよう参究して参りたいものと存じます。(平成6年1月)


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