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なるほど法話 海 潮 音
禅 第28話 「今」とは何か(2)
前回、道元禅師の「而今」(にこん)を強調する時間論は、実践というものが「今」(而今)だけにしかないが故に説かれたのであろうということを考えてみましたが、今回は、その「今」をどのように実践したらよいかを考えてみたいと思います。
道元禅師はすべては今(而今)であると説かれますが、今ある自分は昨日もあったし、明日もきっとあるでしょう。そうだとすれば、すべては今であるとは言えないように思われます。
ところが、昨日の自分は「昨日もあった」とは思わないのでして、やはり「今ある」と思ったはずです。すなわち、生きている私たちが「思う」のはすべて「今」なのです。いのちある私たちからすると、常に「今」なのであり、「今」が間断なく連続しているということになるわけです。
そうであれば、いのちある私たちにとっての時間は「今」だけであり、思うことだけでなく、行為全体が今だけなのですから、「実践というものが今だけにしかない」ということを言う必要もないように思われます。
ところが、人間はものを考える動物です。この「考える」というところに問題がありそうです。
私たちは何かものを考えるときは「今」を意識していません。逆に「今」を意識すると、ものを考えることはできなくなるように思います。
なぜなら「今」はどんどん新しくなっていきます。その次々と新しくなる「今」に意識を集中するというのは至難の業であるからです。
また、私たちがものを考えるときは言葉で考えます。言葉と言葉をつなぎ合わせて考えます。恐らくそのときは停滞した時間の中にいることになるでしょう。その間にも「今」はどんどん進んでいます。そのような次々と新しくなる身体的な「今」とはずれを生じた停滞した時間の中で、心的な「考える」という行為がなされるように思われます。
そうすると、「考える」という心的な行為をしているときは、意識が考えている内容にとらわれ、「今」とはずれた時間の中にあるため、実践が不可能となっていると考えられます。
では「今」に意識を集中し、真の実践を可能にするにはどうしたらよいでしょうか。それが坐禅でしょう。
正しく坐って意識を「今」に集中します。しかし、その「今」は次々に新しくなりますから「今」という言葉を通して「今」に集中することは不可能でしょう。そうではなく、身体的な正しい坐相に意識を集中することにより「今」への集中が可能となると思います。
「今」とは停滞のない身体的側面にあるのであり、停滞する心的側面にはないからです。 (平成二十年二月)
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