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なるほど法話 海 潮 音
禅 第27話 「今」とは何か(1)
新春を迎え、「今」とは何かを考えます。前々回、山登りの話をしましたが、道元禅師も山登りの光景を例に「今」を説明されています。『正法眼蔵』有時の巻に次のような内容が説かれています。
「お不動さまを見たのは昨日であり、仏さまを見たのは今日であるから、時間的な差があるように思われるけれども、それらは山に登って頂上に立ったとき、沢山の峰々を同時に見わたすのに似ている。昨日見たお不動さまも、『昨日お不動さまを見た』という思いが自分の頭の中を今よぎったのであり、昨日のような気がするけれども、実は今(而今)のことである。今日のあの時見た仏さまも、同じく『今日のあの時仏さまを見た』という思いが自分の頭の中を今よぎったのであり、あのとき見たような気がするけれども、今(而今)のことである。」
ここで道元禅師が言わんとされていることは何かを考えてみますと、過去における諸々の経験はその時々に確かに経験したのであるが、今という現在からすると、そういう経験の思いが頭の中をよぎったに過ぎない。そしてそのよぎったのは今(而今)である、というのですから、実際の経験(この場合は「思いが頭の中をよぎる、思い起こす」という経験)がありうるのは、常に「今」(而今)という現在の一瞬だけであるということかと思います。
考えて見れば、実際の経験があり得るのは「今」だけであることは疑う余地がないでしょう。たとえば、「昨日の自分」と「明日の自分」と、そして「今の自分」とを実際に並べて見ることはできません。できるのは頭の中だけに過ぎません。実際にあるのは「今の自分」だけであります。今の自分が行動しなければ実際の経験というものは成立たないのです。にもかかわらず、「昨日の自分」も「明日の自分」も確かに考えることができるという理由だけで、「今」をおろそかにし、実際の経験があり得るのは「今」だけだということを忘れて生活しているのではないでしょうか。
その「今」とは、はなはだ曖昧ではありますが、一瞬であります。この一瞬の「今」は、いのちのある私たち人間が感じるものです。そして、実際の経験もこの一瞬の「今」の中だけにあります。実際の経験を主体的に言えば、実践ということになりましょう。恐らく道元禅師は、この実践というものが、一瞬の「今」(而今)だけにあり得るということを示さんがために、「而今」という時間論を説かれたのではないかと考えています。 (平成二十年一月)
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