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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第26話 渓声山色(下)    

 前回につづいて「峰のいろ云々」の和歌について考えます。前回、蘇東坡の渓声山色の偈を使って考えましたが、今回も同じです。

道元禅師は蘇東坡が偈にしたような悟りの世界に入ろうと思えば「山流水不流より学入の門を開すべし」と言われます。

「山流水不流」とは言語的理解の打破を意味し、「須く言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし。須く回光返照の退歩を学すべし」(『普勧坐禅儀』)の前半に対応しますし、また「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」(『正法眼蔵』現成公案)の前半とも対応します。

今回は「悟り」の話でありますから、上記二引用文のそれぞれの後半が問題となります。

「回光返照の退歩」はにわかには理解しがたい言葉ですので、対応する「万法すすみて自己を修証する」の方から考えてみることにします。

これは、対象(万法)がそのまま自分の心に入ってきて心の中を占領すること、と理解できるかと思います。

もしこれができたとすれば、そのとき、対象と心の中とは完全に一致するでしょう。

道元禅師も「退歩返照せしめば、自然に打成一片ならん」(『典座教訓』)と述べられますが、この「打成一片」は対象と心が一つなることをいうでしょう。

対象と心が一つになっている場合は、心で思っている事柄が対象の事柄でもあるわけですから、「思うままにならない」という苦しみは起りようがないわけです。ですから道元禅師はこれを「さとりなり」と説かれるのです。

しかし如何なる実践が「万法すすみて自己を修証する」(対象が心に入る)を可能とするのでしょうか。

それは只管打坐の坐禅でありましょう。只管打坐の坐禅を私は正しい坐相をねらいつづけ、その正しい坐相と一つになることだと考えています。

「正しい坐相」を心の対象にするわけです。「正しい坐相」は自分の肉体ですから、他の如何なる対象よりも心と一つになることが容易な対象かと思います。

只管打坐の坐禅、すなわち、自分の心を正しい坐相と一つにし、正しい坐相という対象をそのまま心に引き込む「回光返照の退歩」に馴れ親しむと、「峰のいろ谷のひびき」がそのまま心に入ってくるのではないでしょうか。

そのとき対象と心とは一つです。苦が起らず、従って悟りです。

「仏の説法によって悟る」という構図からすれば、「峰のいろ谷のひびき」は仏と説法、即ち「わが釈迦牟尼の声と姿と」になりましょう。 (平成19年8月)

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