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なるほど法話 海 潮 音
禅 第25話 渓声山色(上)
「春は花」につづき道元禅師の和歌集から「峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」を読みます。これも禅師の代表的な和歌の一つです。
『正法眼蔵』渓声山色の巻に蘇東坡(宋代の文人)の悟りの偈(漢詩)である「渓声便ち是れ広長舌 山色清浄身に非ざることなし」が取り上げられていますので、これを和歌にしたものと理解してよいかと思います。
道元禅師は蘇東坡が偈にしたような悟りの世界に入ろうと思えば「山流水不流より学入の門を開すべし」と言われます。
「山流水不流」(山は流れ水は流れず)とは何を意味するのでしょうか。私たちの常識をひっくり返しています。
そうです。私たちの言語で理解する態度を止めなさいと仰っているのだと思います。そうすると悟りの世界に入れますよというわけです。
禅師は『普勧坐禅儀』の中で「須く言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし。須く回光返照の退歩を学すべし。」と説かれるところがありますが、この前半が「山流水不流」の意味するところに相当するでしょう。
また『正法眼蔵』現成公案の巻で「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」と説かれる前半とも対応すると思います。
すなわち、言語的理解(言を尋ね語を逐ふの解行)は迷いだから止めなさいと仰るのです。
そしてその言語的理解の特徴を「自己をはこびて万法を修証する」ことだと言われるのですが、これは自分の頭(心)の中で言葉を組み合わせて理解したことを対象(万法)に当てはめるということでしょう。
私たちは対象から得た情報を正確に言葉にしたつりでいても人によってその表現はまちまちです。そもそも得た情報そのものが人によって異なります。
ですから言葉で理解した内容をその対象(万法)に当てはめたところで、それはほとんど出鱈目だと言っていいわけです。
今「なんでも鑑定団」というTV番組が人気のようです。あれを見ていると如何に依頼人が「自己をはこびて万法を修証」し、「言を尋ね語を逐ふの解行」を行っているかが解るではないですか。
なにも依頼人に限ったことではありません。私たちの日常生活は大なり小なり依頼人と同じ態度で生活していると言えましょう。
そのとき、自分の心の中と現実の対象との食い違いが「思うままにならない」という苦しみを生じます。これを道元禅師は「迷い」と仰るのです。次回は後半の「悟り」のお話を致しましょう。(平成19年7月)
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