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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第24話 本来の面目    

 道元禅師には『道元禅師和歌集』(『傘松道詠』)というなじみ易い和歌集も存在します。

その中に「春は花夏ほととぎす秋は月、冬雪きえですずしかりけり」という一首があります。

1968年に川端康成さんがノーベル文学賞を受賞されたときの記念講演(演題「美しい日本の私」)で引用され、ご存知の方も多いことと思います(ただし、川端さんの引用は「冬雪さえて」ですが、「冬雪きえで」が正しいとされています)。

 ところで、右の一首には詞書に「本来の面目を詠ず」とあります。しかし、春夏秋冬に花・ほととぎす・月・雪を並べただけで、「本来の面目」(本来具えている真実のすがた)といった難しい内容を詠じているようにも思えません。どうも「すずし」に重大な意味がありそうです。

 『国語大辞典』(小学館)によりますと、「すずしい」の意味にいくつかありますが、「物のさまがさわやかである」及び「心がさわやかである、わずらいがない」が注意されます。

『道元禅師全集』第七巻(春秋社)には、右の一首に対する頭註の中で、「すずし」という言葉は「花・鳥・月・雪」を修飾し、花の爽涼、鳥の澄声、月の清涼、雪の潔涼をいうとされますから、「すずし」を「物のさまがさわやかである」の意に取っているようです。

しかし「花・鳥・月・雪」は必ずしも「すずし」(さわやかである)と決まっているわけではないでしょうから、そのように感じられた道元禅師の心をも修飾する言葉と言うべきでしょう。

その場合の意味は「心がさわやかである、わずらいがない」の方が適しています。

「すずし」が心の対象である「花・鳥・月・雪」だけでなく心の方にもかかる言葉であるところに重大な意味が隠されているようです。

 道元禅師の『普勧坐禅儀』には、身心脱落のときに本来の面目が現前すると説かれますし、『宝慶記』には道元禅師のお師匠様である如浄禅師が、身心脱落とは柔軟心(にゅうなんしん)のことだと説かれますから、柔軟心のとき本来の面目が現前すると理解できます。

その柔軟心について、橋本恵光老師は何事にも一如できる心が柔軟心であり、そのとき本来の面目が現前すると説かれます(『普勧坐禅儀の話』)から、これを受けて問題の一首を考えますと、

「春には花、夏にはほととぎす、秋には月、冬には雪、これらはそのままで実にさわやか(すずし)であるが、それらに対してどうこうあって欲しいというこちらの思いを出さず、それらのあるがままを受け取ることができれば、こちらの心もさわやか(すずし)でわずらいがない。そこに本来の面目が現前しているといえよう」となりましょうか。 (平成19年4月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。