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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第23話 道元禅師の実践論(もう一つの「自己をわするる」)    

 道元禅師は、「身心脱落」の悟りは「自己をわするる」によってもたらされ、その「自己をわするる」とは「只管打坐」の坐禅によるとされています。

しかし、禅師は坐禅とは別の「自己をわするる」方法も説いておられるようです。『正法眼蔵』現成公案巻の「自己をわするるといふは(中略)自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」という文章が示唆しています。

自己の身心を脱落せしむるのは坐禅の「自己をわするる」でしょうが、他己の身心を脱落せしむるのは如何なる「自己をわするる」でありましょうか。

 道元禅師は『涅槃経』の「自未得度先度他」という言葉に注目され、このように発願し営むことが発菩提心であることを「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。」(『正法眼蔵』発菩提心巻)と述べておられます。

ここに言う「一切衆生をわたさん」(度他)というのが「他己の身心を脱落せしむる」に相当するでしょう。

そしてその営みは自己の身心脱落を達成した後にするのではなくて、「おのれいまだわたらざるさきに」(自未得度先)するのであります。即ち、自分のことはさておいて他者の身心脱落を願い営むのであります。

これが「菩提心をおこす」ことだと言っておられるわけですが、その心は自分には向けられず他者にのみ向けられており、「自己をわするる」状態となっています。

即ち、「自分のことはさておいて他者の身心脱落」(自未得度先度他)を願い営むところに、坐禅とは別の「自己をわするる」状態がもたらされているわけです。

ここで重要なことは、自未得度先度他を「願い営む」ことであり、他者に向かっては自未得度先度他の「心をおこさせること」であります。

禅師も「衆生を利益す、といふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。」(同巻)と述べておられる通りです。

「自未得度先度他」を直接行うことは困難でしょう。しかし「自未得度先度他」の心をおこし、他者にもその心をおこさせることは可能でしょう。

その心をおこすところに「自己をわするる」がもたらされ、自ずと悟りへの道が開かれることになるわけです。

そしてその心をおこさせる方法が「布施・愛語・利行・同事」の「四摂法」として説かれており、日常生活の中でも「自己をわするる」ことは可能なわけですが、「自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われ、ほとけにならん、とおもふべからず」(同巻)という道元禅師のご注意の意味を忘れてはなりません。 (平成17年1月)

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