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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第22話  道元禅師の坐禅論(自己をわするる)    

 「自己をわするる」が「自己をはこびて」の否定であるとすれば、その意味は「自分の勝手な思いをはずすこと」となりましょう。

ではどのようにして「自己をわするる」のかが問題ですが、道元禅師は「自己をわするる」ことによって「身心脱落」(悟り)がもたらされるとされますので、

「参禅は身心脱落なり、祗管打坐して始めて得ん」(『正法眼蔵』三昧王三昧巻)の言葉と合わせますと、「自己をわするる」とは只管打坐(祗=只)によると知られます。そしてその意味は「ひたすらに坐禅すること」とされています。

「坐禅」について道元禅師は『普勧坐禅儀』の中で「箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これすなわ乃ち坐禅の要術なり。」と述べておられますから、

この文章から、坐禅における心の状態を探り、合わせてどのようにして「自己をわするる」のかを探ってみたいと思います。

まず、「思量」とは、思考のことで、私たちの普通の認識方法だと思っていいでしょう。私たちの認識は、現実そのものを認識しているのではなく、現実のものに自分の勝手な思いを重ねて認識しています。

例えば、骨董店で茶碗を手にして「おお、これは!」と思いが膨らみ、値を聞くと格安で、しめたと思い購入しますが、後で普通の茶碗に過ぎないことが判明するといった具合です。

次に「不思量底」(「底」とは、〜のもの)とは、人間の思いの重なっていない「現実そのもの」(ありのままの現実)を言うでしょう。

その現実そのものを思量(認識)せよと言うのですが、そのときの思量は普通の思量(思考)ではなく、「非思量」だと言っています。

この「非思量」が只管打坐しているときの心の内実だということになりましょう。

普通の認識では、先に述べたように現実そのものを認識するということはほとんど不可能ですが、只管打坐の坐禅はそれを可能にしてくれるというわけです。

まず、「現実そのもの」をつかむための対象として自分の体を持ってきます。それを「正しい坐相」に設定し、一瞬もゆるがせにせず、「正しい坐相」をねらい続けます。

その緊迫した様子は、橋本恵光老師が引用される「油を一杯にした器を一滴もこぼさずに目的地まで運べば大臣にするが、一滴でもこぼせば斬り殺す」という『涅槃経』に出てくる話で想像できましょう。

このようにして「正しい坐相」(=現実そのもの、不思量底)をねらい続けるとき、思いを重ねる普通の認識の出番はありえないわけで、「非思量」即ち「自己をわするる」が達成されるというわけです。 (平成16年12月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。