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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第20話  道元禅師の坐禅論(自己をはこびて)    

道元禅師が、苦あるいは迷いの原因であるとして説かれている「自己をはこびて万法を修証する」(自分の勝手な思いをひっさげて対象を見ようとする)という態度について考えてみたいと思います。

これは、ある対象を見るとき、その対象に対する自分の勝手な思いを持った上で、その対象を見ようとする態度です。

このような態度で対象を見ますと、対象のありのままの姿と自分の勝手な思いとが対立します。

花は咲けば散るという現実のありのままの姿と、美しい花だから散ってほしくないという勝手な思いとの対立です。

このような対立がありますと苦という感情が生じ、迷いの状態にあることになります。

この場合に、散ってほしくないという勝手な思いがなかったとしたら、すなわち「自己をはこびて」ということがなかったとしたら、花が散るのを見ても、花が散るというありのままの姿を見ることができ、それをそのまま受け入れて苦という感情を起こすことはないでしょう。

花の場合は、散るのもまた風情と涼しい顔をしていることもできないことはありませんが、「自己をはこびて」ということは私たち凡夫にとっては簡単に払いのけることのできないもの、執拗に心に染み付いているものであることを知らねばなりません。そのことを知るために、ひろさちや氏のコップの話を使って述べてみましょう。

夏の暑い日などに一日の仕事を終えたあと、グーッと飲み干すビールの味はなんとも言えませんが、もし、ビールを注いだそのコップが一度でも尿検査に使われたコップだとしたらどうでしょう。いくらそのコップを洗剤で洗い熱湯消毒をしたところで、それでビールをどうぞと言われたって飲めないし、無理して飲んだとしても顔が歪んでしまうでしょう。しかし、熱湯消毒すれば、もはやそのコップは衛生的には完全で、「不潔さ」というものは全く無いはずです。そうとわかっていても、一旦そのコップで尿を取ったと知れば、やはり「きたない」という思いがつきまとい、「不潔さ」が有るような気がしてこだわるのが私たち凡夫です。

すなわち、尿検査に使ったという思いが、このコップはどこか汚いという勝手な思いを起こし、それが衛生的にきれいなコップのありのままの姿を見るということを阻みます。

こちらに勝手な思いがあると、理屈の上ではきれいだとわかっているにもかかわらず、その対象のありのままの姿(きれいなコップ)を見ることができないのです。

これほどに、「自己をはこびて」ということをはずすことは難しく、簡単ではないわけです。(平成16年10月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。