このページは音声読み上げページです。下の[開始]ボタン(右矢印)を押すと、テキストの読み上げを開始します。([開始]ボタン(右矢印)が出ていない場合はここをクリックしてください。)


なるほど法話 海 潮 音      


禅 第19話  道元禅師の坐禅論(心塵脱落から身心脱落へ)    

 道元禅師が中国留学の折りに、如浄禅師に「身心脱落」の意味を問うたとき、如浄禅師の答えは「身心脱落とは坐禅なり。祇管に(ひたすらに)坐禅するとき、五欲(煩悩)を離れ、五蓋(煩悩)を除くなり」(『宝慶記』)というものだったとされるのですが、

かって、高崎直道博士はこの如浄禅師の答えの中の「身心脱落」は元来は「心塵脱落」であったのではないかという問題提起をされました。

「心の塵」とは煩悩のことですから、「心塵脱落」の方が文意はスッキリします。

一方、道元禅師は「身心脱落」の内容を「自己をわするる」ことであり、「万法に証せらるる」ことであると説かれますから、如浄禅師の「心塵脱落」とはいささか異なることになりましょう。

 仏陀の最初の説法は「四諦」の教えとされています。即ち、人生のすべては苦であり、その苦の原因(集)は自己の心の渇愛(煩悩)であるとしました。

そして、その渇愛をなくせば、苦もなくなり(滅)、それが涅槃、即ち悟りであると説かれました。更に、その涅槃(悟り)に到る方法(道)も細かく説かれています。

従って仏陀は「悟り」(苦の克服)に至るためには煩悩をなくせばよい、と説かれているわけですが、高崎博士の如く如浄禅師が「心塵脱落」を説かれたとすれば、如浄禅師も同じく「悟り」(心塵脱落)とは煩悩をなくすことだと説いていることになりましょう。

 「心塵脱落」を「身心脱落」とした道元禅師はどうでしょうか。

道元禅師は、苦の原因をかかえ迷いの状態にある凡夫の姿を「花は愛惜にちり、草はきけん棄嫌におふるのみなり」と表現されています。

花は咲けば散り、草は種が飛んでくれば生えます。これが現実ですが、凡夫は美しい花は咲いたままがいい、草は生えない方がいいと勝手なことを思います。

思いと現実の不一致は苦を生じます。これが迷いの状態といわれます。

この点を道元禅師は「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」(自分の勝手な思いをひっさげて対象(万法)を見ようとするのが迷いである)と述べ、迷い(苦)の原因を「自分の勝手な思い」(自己)に求められています。

この思いはもちろん煩悩から来るのですが、道元禅師はこれを仏陀や如浄禅師のように「煩悩」の方向には見ずに、「自分の勝手な思い」すなわち「自己」をひっさげて対象を見ようとする態度が、苦あるいは迷いの直接の原因であるとして認識論的に理解されているようです。

そこに哲学的深さがあると同時に、現実的な実践論が可能となっているように思われます。(平成16年9月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。