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なるほど法話 海 潮 音
禅 第18話 道元禅師の時間論(三)
まず、「経歴」について若干補足します。
道元禅師は、昨日見た不動尊像の空間的認識が今頭の中をよぎった(一経す)のであり、今日見た仏像の空間的認識が今頭の中をよぎった(一経す)のである、と言われます。
この二つの「今」は勿論同じ「今」ではありません。しかし、「つらなりながら時時なり」ですから、「今、今」として連続しています。それをまとめて「昨日(の不動尊像)より今日(の仏像)に経歴す」と表現され、「今日(の仏像)より昨日(の不動尊像)に経歴す」とも表現されます。
従って「経歴」とは、頭の中に色々な表象が「現れること、よぎること」をいうのであり、何かものが移動するように(風雨の東西するがごとく)考えるべきではないと注意され、春には春らしい沢山の様相が見られること(春に許多般の様子あり)が「経歴」の意味だと説明されています。
いずれにしても、「経歴」は、「而今」(今)における頭の中での出来事をいうのであり、連続する「今、今」の時間論を構成する重要な概念であるわけです。
ところで、道元禅師は何故、私たちが常識で考える等速的な「流れの時間」(観念的時間)ではなく、連続的な「今、今の時間」の立場に立たれるのでしょうか。
まず凡夫が「すぐる」と考える時間、即ち「流れの時間」を「去来」と表現され、禅師が説かれる「今、今の時間」を「住位」と表現されています。
「住位」とは「今」のまっただ中に住しているということかと思いますが、「現成公案」の巻では「前後際断」と説明されています。自分にとっての「今」はいのちある生身の「今」ですが、それ以前の過去はすべて頭の中の観念ですし、それ以後の未来もすべて頭の中の観念にすぎません。従って「前後際断」というべきでしょう。
そのような前後際断の「今」が、今、今として連続しているわけですが、その「今」に、例えば不動尊像という表象(空間的認識)が頭をよぎります。そのとき、自分の意識がよぎった表象のあとを追っかけると「去来」(流れの時間)となり、今頭の中を「よぎった」(経歴)という事自体に踏み止まれば「住位」(今、今の時間)といわれるのではないかと思います。
前者は表象(観念)にとらわれている姿であり、後者はとらわれていない姿といえましょう。「住法位の活VV地(自由自在)なる」とは、このことかと思います。
何か失敗して赤面したとき、失敗した事柄にいつまでもとらわれて嘆かず、では今、自分はどう対処すべきかを考えるのが「今、今の時間」に立つことかと思います。 (平成16年4月)
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