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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第17話  道元禅師の時間論(経歴)    

今回は、「経歴」と言う概念を中心に道元禅師の時間論を考えます。

前回、禅師が、山をのぼり河をわたったという自分の過去の経験について、それは自分が今思い出しているのだとして「われに有時の而今ある、これ有時なり」(自分に、山にのぼったあの時の空間的認識を思い出している今がある)と述べておられることにふれましたが、

更に詳しく「三頭八臂はきのふの時なり。丈六八尺はけふの時なり。しかあれどもその昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂も、すなはちわが有時にて一経す、彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺も、すなはちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり」と述べられます。

三頭八臂(不動尊像)を見たのは昨日であり、丈六八尺(仏像)を見たのは今日であるが、それらを昨日見た、今日見たという思いが今あるのであるから、それらは山頂に登って遠くの山々を同時に見渡すのに似ていると言われます。

そして昨日見た三頭八臂も自分のその時の空間的認識(わが有時)が今頭の中をよぎった(一経す)のであり、今日見た丈六八尺も自分のその時の空間的認識が今頭の中をよぎったのである、と言われます。

この「一経す」の「経」は「経歴」の略で、「経歴は、たとへば春のごとし。春に許多般の様子あり、これを経歴といふ」と説明しておられますが、解りやすい説明とは言えません。恐らく「冬が過ぎて春が来た」という場合の「過ぎ〜来た」に似た言葉として使っておられるように思います。

即ち、春という自然界の様相の変化に過ぎないものを、冬から春へという時間的経過として見たときに「経歴」という言葉が使われるのではないかと思います。

しかしながら禅師は「わがいま尽力経歴にあらざれば、一法一物も現成することなし」と仰せですから、その経歴は外界のできごとではなく、私たちの頭の中のできごとであり、ある空間的認識が頭の中を「よぎった」という程の意味かと思います。

このような経歴は「今日より明日に経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日に経歴す、今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す」ということが自由自在に言えましょう。

道元禅師の時間論は「有時」(ある時点の空間的認識)と「経歴」(今頭の中をよぎること)とで構成された認識主体が経験する時間論です。認識主体が傍観している観念的時間論ではありません。

この今、今が連続した「今しかない」時間論こそ、実践者の時間論と言えましょう。(平成16年3月)

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