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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第16話  道元禅師の時間論(有時)    

前回、道元禅師の時間論は「今、今の時間」にあることを見ました。今回は少し立ち入って考えます。

人間が外界の光の刺激を目で受け取り、その情報を脳に伝達してある映像として理解するまでに0.25秒かかるとされています。しかも人間は外からの情報通りにではなく、自分の持つ色々な過去の情報を合成して見ますので、私たちは外界の刺激を受けながらも内なるものを見ていることになりましょう。

禅師が「われを排列しおきて尽界とせり」「われを排列して、われこれをみるなり」と言われる所以です。即ち禅師が「尽界」等の言葉を使われても「外界」そのものを意味しているのではないということです。

次ぎに、飛んでいる矢を見ているとします。その時、時間が止まったとします。矢はどのようになるでしょう。空中に止まって見えるとお考えでしょうか。

そもそも「時間が止まる」という表現が曖昧です。「時間は流れるもの」と考えるために「止まる」と言う言い方をするのであって、「時間が止まる」とは時間が無くなることに他ならないと言えましょう。もし時間が止まっても物が見えているのであれば、そこには時間が有るのであり、時間が無くなれば矢は見えなくなるはずです。

即ち時間が有るから物が見える(空間的認識が成立する)のであるし、物が見える(空間的認識が成立する)ためには時間が必要です。この空間的認識と時間との関係を道元禅師は「有時」(うじ)という言葉で表現されるのであり、「有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と仰せです。

また禅師は、山をのぼり河をわたったという自分の過去の経験について、それは自分が今思い出しているのだとして「われに有時の而今(にこん)ある、これ有時なり」と仰せです。「山にのぼったあの時の空間的認識が今の自分にある。これが有時である」の意味となりましょう。

即ち「有時」とは、「ある時点の空間的認識」であり、それが「而今」即ち現在に起こっていると言う訳です。過去の経験を今思い出しているというのです。未来についても同様に今想像しているに過ぎない、となりましょう。

従って禅師の時間論は「而今」という現在に過去も未来も共に包含され、その現在が空間的認識を成り立たせつつ、現在、現在として連続しているというのが骨子となりましょう。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり」「時時の時に尽有尽界あるなり。しばらく、いまの時にもれたる尽有尽界ありやなしやと観想すべし」と仰せです。

今回は「有時」について考えました。次回は「経歴」(きょうりゃく)です。(平成16年2月)

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