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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第15話  「現在」とは何か(2)    

前回、二種類の時間をお話ししました。一つはヨウカンに喩えた時間で、もう一つは今、今の時間でした。

「ヨウカンの時間」は全体が過去と未来で長さは無限大ですが、現在は切り口にすぎません。過去の部分を青色とし、未来の部分を緑色としますと、時間の経過とともに色の境目(現在)が緑色(未来)の側に移動します。

このような時間は、見られている時間であり、考えられている時間です。それを見、考えている認識主体は時間の外にあります。時間の外にある認識主体によって考えられている時間ですから観念的時間と言えましょう。

しかし、このような時間は主観が完全に排除されているため客観世界、即ち、自然科学の世界を構成し、色々と有効性が認められる世界でもあります。有効性が認められても「観念的時間」ということが否定されるわけではありません。注意すべき点かと思います。

一方、「今、今の時間」とはどういう時間かと言いますと、「ヨウカンの時間」(観念的時間)の中で、時間の経過とともに移動した「色の境目」(現在)に、外で見ていた認識主体をぶち込んだとき、その認識主体が経験する時間がそれです。その認識主体は常に「色の境目」である現在にありますから、「今、今の時間」と呼びうるかと思います。こちらの時間では、認識主体は常に現在を経験していますので、経験的時間と言えましょう。

そして、その場合の過去と未来はすべて頭の中にある観念に過ぎませんが、これが先の「ヨウカンの時間」(観念的時間)に相当します。だがしかし、過去は観念に過ぎないと言っても、昨日の自分は確かに存在したではないか。あれは観念か。という疑問がおこりましょう。確かに存在しました。しかし、昨日の「現在」に存在したのであって、今の「現在」から見ると、それは頭の中にある観念に過ぎないのです。常に現在にあるというのが二番目の時間です。

要するに、二つの時間は、認識主体を時間の外に置くか、時間のまっただ中に置くかという相違に基づくことになるわけです。

道元禅師は、認識主体(自分)を時間のまっただ中に置く後者の時間の立場に立たれ、昨日見たものも今日見たものも、今、山々を見わたすようなものだと次のように仰せです。

「三頭八臂(不動尊像)は、きのふの時なり、丈六八尺(仏像)は、けふの時なり。しかあれどもその昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰萬峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂も、…彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺も、…彼處にあるににたれでも而今なり。」(平成16年1月)

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