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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第14話  「現在」とは何か    

「現在」とは何か。これは、簡単に答えられない難しい問題です。「時間」というものをどう考えるかという問題であって、「ゼノンのアキレスと亀の逆理」が二千年来無数の哲学者や数学者によって検討されてきたにもかかわらず未だに解決を見ていないとされることからもその難しさが想像されます。

この難問につきまして、前回の「わかるということ」での反省にもとづき、感覚的に考えて参りたいと思います。

まず第一例として、ここに一本のヨウカンがあります。真ん中あたりを包丁で切ります。ヨウカンは半分になりました。

右側の半分を「過去」とし、左側の半分を「未来」とします。そうすると「現在」はどうなるのかと言いますと、ヨウカンの「切り口」がそれに当たるのだと思います。

そうではなくて、ごく薄っぺらのヨウカンを切ってこれが「現在」だと言えば、それをまた過去と未来に切り分けることが可能ですから、ヨウカンの「切り口」が現在に当たるとすべきでしょう。

そうすると過去と未来はヨウカンとして存在しますが、現在はヨウカンとしては存在しないことになります。

次ぎに第二例は、その中に自分がいる「今」という「現在」を考えます。

そうすると「過去」とは自分の頭の中で思い起こした事柄に過ぎませんし、「未来」も頭の中で想像している事柄に過ぎません。

一秒前に確かに存在した自分を含めた全てのものも、「現在」(今)からすれば、すべては過去のものとして頭の中の事柄に過ぎないと認められましょう。

ですから、存在するのは「現在」だけであり、過去も未来も存在するとは言えないことになりましょう。

第一例では過去と未来があって現在がなかったのに対し、第二例では現在だけがあって過去と未来はないという不思議なことになってしまいます。

これは一体どうしたことでしょう。第一例は自然科学が採用する線形時間と言われるもので、ヨウカンが線形を表しているわけですが、これは時間が線形上を動くという考え方で、時間というものを時間の外から眺めているわけです。このように時間というものを外から眺めようとすると現在がすり抜けてしまうのです。

一方、第二例では「現在」(今)のまっただ中に自分がいます。そうすると過去も未来もなくなってしまい、「現在」(今)だけになります。
常に「現在」にありますから、今、今、今、の連続になります。

観念論ではなく、実践論を説かれる道元禅師は、この第二例の時間論に立たれ、「今」を「而今」(にこん)、「有時」(うじ)として説かれているのだと思います。 (平成15年12月)

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