このページは音声読み上げページです。下の[開始]ボタン(右矢印)を押すと、テキストの読み上げを開始します。([開始]ボタン(右矢印)が出ていない場合はここをクリックしてください。)
なるほど法話 海 潮 音
宗教 第 8 話 葬式を考え直す
葬式というものを日本仏教史の上で考えるとどのようになるのでしょうか。日本への仏教公伝は欽明天皇七年(五三八)とされていますが、その後、一世紀半以上たった大宝元年(七〇一)に「僧尼令」という法が制定され、僧尼統制の法的根拠が示されました。
それによると、当時の僧侶は官僚(国家公務員)として位置づけられ、国家から給料が支給されると同時に、さまざまな義務が課せられていました。僧侶になるには天皇の許可が必要であったり、民衆教化活動は禁止されていたりしました。このような官僚的僧侶のことを「官僧」といいます。
それでは官僧たちは何をしていたのかといいますと、天皇・貴族を中心とした国家の安泰を祈ること(鎮護国家)を第一の勤めとしていました。
ところで、当時の日本人は「穢れ」を極端に嫌う精神世界を構成していましたので、国家の安泰を祈ることを仕事とする官僧たちは清浄であることが求められました。そのため、穢れ、特に死穢を忌避することが重要な義務となっていたのです。
死穢とは死体に触れることによって生ずる穢れのことですが、その重さは、それに触れた人間が神事や参内を忌み慎む日数によって示されます。死穢の場合、三十日とされていましたから、死穢に触れた官僧は三十日間職務停止ということになります。従って、官僧たちは天皇や貴族の葬式を除いて葬式というものをしなかったのです。
それでは庶民が亡くなったとき、誰が葬式をするのかというと誰も葬式をしてくれなかったのです。その上、穢れを極端に嫌う精神構造と相まって、死体の「野捨て」(死体遺棄)が盛んに行われました。
これを救おうとしたのが鎌倉新仏教系(浄土宗・真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗など)の人びとでした。穢れの思想が定着している中で、それをものともせずに死者を救おうと、庶民の葬式をした行動は大変意義深い行動であったと思います。
しかし旧仏教(官僧教団)からの圧力があり、ことは簡単ではなかったようです。そして、その行動が自由となったのは、室町幕府と共に旧仏教が衰退するきっかけとなった応仁の乱(一四六七年)以降であり、それは丁度、鎌倉新仏教系のお寺が続々建立された時期と重なります。
すなわち、現在、日本にある大半の仏教寺院は庶民の葬式をするために建てられたお寺と考えられるということです。「葬式仏教」という言葉は日本仏教の堕落した状態を示すかの如く扱われていますが、「葬式」自体は決して堕落状態ではないはずです。じっくり考え直してみたいものと思っています。 (平成17年5月)
音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。