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なるほど法話 海 潮 音
社会 第56話 旧明倫館聖廟の移築
前々回も書きましたが、現在、萩市では旧藩校明倫館整備事業が進められています。 中でも明倫館の中心施設である聖廟(孔子廟)の移転・復元事業は当山に直接かかわる事業ですので、檀信徒の皆様方もご関心をお持ちのことと存じます。 今回は当山本堂の元の姿である旧聖廟のことを中心にお話し申し上げます。 前にも書きましたが、海潮寺は明治七年(一八七四)十一月四日の火災で山門と土蔵を除く大半を焼失いたしました。 翌明治八年、当山三十五世欣嶽来飜和尚により復興事業が着手されましたが、その際、幕末(嘉永二年〈一八四九〉)に江向に再建され明治になって不要となっていた藩校明倫館の聖廟の建物を当時の二百円で購入し、当山の本堂として移築いたしました。 当時の二百円が現在ではいくらに相当するかは簡単には言えないのですが、明治六年に萩城の天守閣が千十三円五十銭で払い下げられていますので、天守閣の約五分の一の値段ということになりましょうか。 藩政時代、全国の藩校では構内に壮大な聖廟を造営し、孔子を学神として祀ることを理想としていました。 当時、藩校は全国で二百八十二校ありましたが、その内、聖廟があったのは五十九校のみで、現在まで存続している聖廟はわずかのようです。 佐賀県の多久市に多久学校の聖廟が現存し、国の重要文化財となっています。これは正面が三間で規模は大きくありません。 それに対して海潮寺の本堂として残っている旧萩明倫館の聖廟は正面が九間もあり、規模が違います。 この聖廟は明倫館の中心に位置する建物ですが、残っている建造物は他にもあり、既に南門(正門)は本来の位置に戻されており、聖廟の前の泮池にかかる万歳橋は志都岐山神社前の池にかかっていて現存します。 観徳門も明倫館跡地(有備館南)に戻されていて本来の場所に帰るのを待っています。聖廟背後に位置する水練池は当初のままで残っています。 このように明倫館の中心部分の建造物が各所に別れて現存するため、萩市はこれらを萩の宝物として萩観光の大きな目玉にしようと移築復元事業に取り組んでいるわけです。 聖廟では春と秋の年二回、釈菜とう祭りが執り行われていました。春は藩主自らが祭り、秋は明倫館の学頭に祭らせました。聖廟で行われる釈菜は学校行事の中で最も荘重盛大に行われたようです。 移築復元の暁にはこのような行事も再現されるのではないでしょうか。聖廟の移築復元は萩観光の大きな目玉の発掘であり、関係者の一人として萩市発展の一助となることを願っています。(平成二十九年三月) |
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