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なるほど法話 海 潮 音      


社会 第54話  本堂(明倫館聖廟)の移築   


 あけましておめでとうございます。本年はいよいよ当山の本堂が古巣の明倫館跡地に戻ることになりそうです。

実は、当山は明治七年に火災に遭い、山門と土蔵を除き、すべてが灰燼に帰しました。

復興に当たり、幕末に堀内から江向に規模を拡大して移された藩校明倫館が明治に入ると真新しいまま不要の代物として存在していました。

当山はその中心に位置する聖廟(孔子廟)を当時の二百円(明治六年に萩城天守閣が一、〇一三円五〇銭で払下)で購入し、海潮寺の本堂として移築していたのです。

恐らく新築しなかった理由は、当時は明治政府の神道国教化政策で仏教界は苦難の時期だったためではないかと推察します。

本堂だけでなく、位牌堂は明治四年頃に合併した末寺である保福寺の本堂を解体して位牌堂として再建したものですし(平成三年に台風で倒壊し同五年に新築完成)、

庫裏は山口市の円政寺町にあった大内時代の円政寺の建造物が当山の近くの神社に移築してあったものを更に移築したものです。

時代は巡り現代は色々と様子が違ってきました。明倫館跡地は明倫小学校となっていましたが、その建物が老朽化し耐震性の問題が浮上して平成二十六年に隣の商業高等学校の跡地に移っていきました。そこで明倫館跡地の利用問題が浮上したのです。

野村萩市長さんはこの機会に明倫館の代表的建造物である聖廟を本来の場所に戻し、萩藩校明倫館の中心部を復元し、観光資源として役立てるべく発願されました。

海潮寺としても、萩市の発展に役立つのであれば協力しようということになり、今年がいよいよその計画を実行に移す年となりそうなのです。

ところで明治七年の火災後の復興に当たり、当山の記録に拠りますと、八百円以上の浄財が集められていますが、その内、聖廟の購入費二百円を兼田三左衛門と久保田庄七の両名が百円(明治四年、伊藤博文の建言により「一両=一円」と決められた)ずつ出した旨が書かれています。

両者ともそのご子孫が現在もお檀家として萩(及び東京、熊本)に在住しておられます。

前者は萩焼天寵山窯二代目の兼田三左衛門重治(明治二十三年没)のことと思われます。この方は嘉永六年に姥倉運河開削工事に対して銀二十枚を献金されています。

また後者については現在呉服町にお住まいのご子孫より庄七さんご自身がお書きになった経歴書のコピーを頂きました。それによると西江州(滋賀県)出身の商人で、萩に来て財をなされた如くです。

現在、両家御先祖のお位牌は本堂の東西に設けられた特別の仏間に大切に安置されています。(平成二十九年一月)
 

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