このページは音声読み上げページです。下の[開始]ボタン(右矢印)を押すと、テキストの読み上げを開始します。([開始]ボタン(右矢印)が出ていない場合はここをクリックしてください。)
なるほど法話 海 潮 音
社会 第49話 諌言(かんげん)
諌言(かんげん)という言葉があります。『広辞苑』では「目上の人の非をいさめること」と説明されています。 萩で諌言のことを話題にするとき、先ず思い出されますのは山田原欽(一六六六~九三)でありましょう。 彼は十一歳のとき上洛し、伊藤坦庵(江戸前期の儒学者)に師事して儒学を学び、十四歳で後に萩藩第三代藩主となる二歳年下の毛利吉成(一六六八~九四)の侍講となっています。「侍講」とは「君徳の養成・啓発のために、天皇や皇太子に講義すること」(『広辞苑』)と説明されますから、将来藩主となる人の教育係ということになりましょうか。 原欽には多くの藩士が教えを受けており、その一人である小倉尚斎は萩藩藩校明倫館の初代学頭になっています。 天和二年(一六八二)吉成公は三代藩主となりますが、その頃の藩の負債総額は銀二万二千貫目といわれ、利息を加えると年間約三千貫目の赤字であったといわれています。 そんな財政難の中、吉成公は、萩出身の黄檗宗の僧、慧極道明禅師(一六三二~一七二一)にぞっこん帰依していました。 吉就公が慧極禅師に送った書状には自らも坐禅をして悦びを感じる内容が書かれており、かなり深く帰依していた様子が窺えます。 そして元禄四年(一六九一)、慧極禅師を開山として迎えるべく、宇治万福寺に範を求め大規模な東光寺の建立に着手しました。 毛利家には既に臨済宗の大照院という菩提寺があり、初代藩主、二代藩主の菩提所となっていますから、新たな菩提所は不要とも考えられます。 折からの財政難、原欽が沈黙を守っている訳にはいかなかったでしょう。『萩市史』第一巻には「東光寺の建立に関連して、元禄六年七月十三日に吉就の側儒山田原欽が自殺した。時に二八歳。前述のように藩の財政が逼迫していた折から、吉就の構想が雄大に過ぎるのを憂慮して諌死(死んでいさめること)したといわれ、ために東光寺は当初の計画より縮小した規模になったともいわれている」とあります。(括弧内筆者) 第二次安倍政権は順調な運営を続けてきました。しかし七月十三日投開票の滋賀県知事選では与党推薦の候補が前民主党衆院議員の候補に敗れました。集団的自衛権の閣議決定が影響したともいわれています。 経済界では一人として安倍首相に意見しようとする人はいないという新聞記事を読んだこともあります。 首相といえども間違うこともありましょう。それを諫める人こそ側近といわれるべき人でしょう。もしそんな側近がいないというのであれば危険信号というべきかと思います。 (平成二十六年七月) |
音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。