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なるほど法話 海 潮 音      


社会 第37話  海潮寺が萩に移った訳    

 海潮寺は応永三十年(一四二三)に石州温泉津(現島根県大田市温泉津町)に創建され、石州では海蔵寺と称し、御開山は不見明見禅師(大本山總持寺十九世)であります。

関が原の戦いに破れた毛利氏が防長二州に移封される際に毛利輝元によって萩に移されました。

海潮寺と毛利氏との関係は、戦国時代に展開された毛利と尼子の石見銀山(戦国期から江戸初期にかけての約百年間に世界の三分の一の産出量を誇った銀山)争奪戦にあります。

弘治二年(一五五六)毛利の名将吉川元春は尼子方の武将刺鹿長信が守る銀山防衛の要、山吹城を攻め落とし銀山も手中に収めました。

しかし永禄元年(一五五八)、今度は尼子晴久が山吹城を包囲し、毛利方についていた城主刺鹿長信は二ヶ月の籠城の末、尼子側に降服し、海蔵寺(後の海潮寺)の境内で城兵の命と引き換えに切腹しました。

このことに責任を感じた毛利元就は長信を手厚く葬り、何度となく海蔵寺に足を運びました。

このような因縁により、元就の孫である輝元は萩での築城と町づくりに当って、慶長十二年(一六〇七)、石州の海蔵寺を萩に移し海潮寺と改号しました。

 江戸以前の萩の三角州内は雨が降れば湿地帯となり居住地には適さなかったようですが、日本海に接する立地条件(北前船に関わるでしょう)をかってか、輝元は築城地として萩を選び、何もないところに町づくりを始めました。

恐らく似た地形の広島を本拠地とする毛利氏の家臣団には三角州を居住地にできる優秀な土木技術者がいたのでしょう。

町づくりは急ピッチで進められ、慶安五年(一六五二)の萩城下町絵図には既に多くの寺院が記されています。

これらの寺院には海潮寺の如く毛利氏と何らかの縁のある寺院が呼ばれている場合が多々あります。

江戸幕府による新寺建立禁止令(一六三一年)が出る前であれば、わざわざ遠地から呼ばなくても新寺が建立できたのではないかと思われますが、江戸期の史料を見てみますと、歴代の住職を列記した世代表に「前住」と記される場合が多々あります。

栗山泰音師(『總持寺史』九二頁)によりますと、これは「平僧」(未嗣法で正式な住職資格のない僧)を意味するようです。

ということは、中世から江戸初期にかけては正式な住職資格を持った僧はそんなに多くはいなかったということです。

昔のお寺の移転は建造物を移築することではなく、そのお寺の伝統と、特にその時の住職に来てもらうということに真の意味があったと気付かされます。昔の住職は重かったようです。(平成二十二年九月)

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