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なるほど法話 海 潮 音
生活 第9話 「育」とは何か
最近のマスコミは子どもに関する痛ましい事件を連日の如く報道しています。塾に行くのをいやがったからといって、母親がわが子を殺すという事件まで起きています。一体どうしたというのでしょうか。
「教育」という言葉は「教」と「育」の二字から成っています。「教」は「〜を教える」という他動詞で、「先生が生徒に数学を教える」などと使われます。同様に「育」も「〜を育てる」という他動詞で、「子どもを育てる」の如く使われます。
ところが「育」の方は、「子どもが育つ」の如く自動詞としても使われます。この自動詞としての意味がとても重要だと思います。
「子どもが育つ」という場合には、「子どもが自らの力で育つ」という意味が含まれているように思います。そうすると「子どもを育てる」という場合も、「『自らの力で育つ子ども』を育てる」ということになるのではないかと思います。
従って、「育てる」とは「育つのを助ける」というほどの意味で、あくまで「育つ」が基本であり、「育てる」は「育つ」のを援助する域を出ないことになりましょう。
まとめますと、「教」の主役は「教える側」ですが、「育」の主役は「育つ側」であって、決して育てる側ではないということです。従って、親が子どもを育てるとき、親が主役になってはいけないのであり、あくまで育つ子どもが主役であり、親はそれをただ助けるだけだということです。
塾に行きたがらないからといってわが子を殺してしまった母親は、自分が主役になっていたのではないでしょうか。自分が主役になれば、この子を「こんなふうにしたい」、「あんなふうにしたい」という思いが膨らむでしょう。そんな思いが動かし難く固まると、その思いに従わない子どもを何とかして従わそうと、もがきあがくことになりましょう。
親はわが子に願いを持つものです。でも願いを持つことと、願いを思い通りに達成できると思うこととは同じではありません。その辺の誤解があったように思います。
特に日常生活の上では何でも思い通りになる現代では、自分の思い通りになって当たり前という錯覚が生まれても仕方のないことかも知れません。そんな錯覚が子どもにまで適用された結果が最近の痛ましい子どもの事件なのかも知れません。
サル学の権威、河合雅雄さんは子どもを「内なる自然」と表現しておられます。その「自然」の元来の意味は「自ズカラ然リ」(おのずから〈みずから〉そうなっていること)ですから、他者の思い通りにはなりませんが、手助けにより素晴らしいものとなりましょう。(平成16年5月)
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