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生活 第37話  母の葬儀
     
 昨年十一月七日に母親が亡くなりました。ちょうど三年前の十一月七日に自室で転けて左大腿骨を骨折し、以来、丸三年の入院生活で永眠いたしました。九十八歳でしたから天寿を全うしたといえるでしょう。

その母の葬儀を五日後の十二日に執り行いました。どんな気持ちでどんな葬儀をするのか、私にはまるで見当が付きませんでしたが、周りのお寺さんが色々手伝ってくださる中でおぼろげに形が出来てきました。

そのきっかけは家内が大切に保管していた一対の茶碗です。その茶碗は、昭和五十七年十月十七日に志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)で行われた献茶式で、当時六十四歳であった母がその献茶の任を賜り、そのとき使った茶碗です。

その茶碗はその献茶式のために檀家さんでもある萩焼作家・兼田昌尚さんにわざわざ作ってもらったものです。

 献茶式のことを少しご説明いたします。萩城の跡地は現在、指月公園になっていますが、その中に「花江茶亭」(はなのえちゃてい、市指定有形文化財)と呼ばれる茅葺きの茶室があります。

これはもと萩藩九代藩主毛利斉房(なりふさ)公が橋本川に浮かぶ常磐島を目の前に眺める風光明媚な場所に、寛政十年(一七九八)に別邸として建てた花江御殿(別名川手御殿)がありますが、その西側に安政年間(一八五四〜六〇)のはじめ頃、十三代藩主毛利敬親(たかちか)公が増築した茶室(石州流の茶人井上正吉が建てたとされる)で、茶事に託し家臣と国事を画策する場に利用したとされています。

これが明治二十年頃、品川弥二郎子爵の肝いりで今の場所に移築されたようです。

この「花江茶亭」は敬親公の庵号から「自在庵」とも呼ばれ、敬親公の遺徳を偲ぶために「自在庵保存会」(初代会長は吉田松陰先生の実兄である杉民治翁)が結成され、敬親公の命日五月十七日にちなみ、毎月十七日を釜日として茶会が催され、特に十月十七日には敬親公が歴代藩主と供に祀られている志都岐山神社の神前で敬親公への献茶式が行われています。

 この献茶式で母が使った思い出の茶碗が出てきたのです。現在、家内も表千家茶道を教えていますが、教区内のお二人のお寺の奥さん(「寺族」といいます)も家内のもとでお茶をされています。そのお二人にこの茶碗を使って母の葬儀にお茶を献じてもらいました。

お陰で私の喪主としての挨拶の中で「自分が献茶式で使った茶碗で教区寺族会のお二人にお茶を供えてもらい、満面の笑顔で嬉しそうにしている母の顔が浮かびます」と謝辞を述べさせていただくことができました。

このような葬儀ができましたことを心より嬉しく思っています。 (平成二十八年三月)