なるほど法話 海 潮 音
生活 第34話 おじぎ
我が国では明治五年(一八七二)に新橋〜横浜間に初めて鉄道が開業しましたが、これは日本の鉄道の父とされる萩出身の井上勝(いのうえまさる)の尽力に依ること大とされています。 彼は文久三年(一八六三)に長州藩を脱藩して英国に密航し、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン (UCL)で鉱山技術や鉄道技術を学んで明治元年(一八六八)に帰国しました。 帰国後は明治新政府に出仕して新橋〜横浜間を初め、東海道線や日本鉄道会社(東京〜青森間)など、鉄道庁長官として日本の鉄道事業の発展に尽力しました。 萩はこのような「日本の鉄道の父」と呼ばれるような人物を出しながらも、萩に初めて鉄道が開通したのは大正十四年(一九二五)の事でした。新橋〜横浜間の開業後、既に半世紀以上が経過していました。 現在の萩市は数年前の大合併によって島根県境まで萩市となっていますが、江戸時代に城下町として栄えた時期の萩は阿武川の河口に形成された一辺が三キロメートル程度の小さな三角州がその中心です。 町並みはほとんどが江戸期のままで、現在の地図に幕末の古地図がほぼ重なります。 江戸時代の交通は海上が主だったようで、毛利輝元公が築城地として萩を選んだのも北前船の利用という思いがあったようです。 しかし明治の初めに井上勝などの尽力により主な交通手段は鉄道となり、そして既に半世紀以上の時間が経っていたにもかかわらず、萩の人々は鉄道を三角州の中を通さず、川外を迂回させたため、玉江駅・萩駅・東萩駅の三つの駅ができました。 もうもうと煙を上げて走る蒸気機関車を嫌ったためでしょうか。しかし鉄道の利用も現在では新幹線に移ってしまい、在来線の利用はガタ落ちです。 なんと萩駅では一日の平均乗車人員はたったの四〇人ということで、萩のような田舎町の交通手段はとっくに鉄道から車に移っています。 その萩の三つの駅の一つである玉江駅での出来事です。駅前の横断歩道を渡ろうと女子高校生らしき生徒が立っていました。 近所のおばさんでしょうか、黄色い交通安全の旗を持って歩行者を誘導されていました。そこを車で通りかかった私も対向車も横断歩道前でゆっくり止まると、生徒は小走りに渡り、渡りきったところで横断歩道に振り向き、深々とおじぎをしました。 おそらく止まってくれた車の運転手や誘導してくれたおばさんやそんな人たち皆に向けたおじぎだったのでしょう。 とかく「今時の若者は」と大人は上から目線でものを言いたがりますが、若者の方が上だなと思った瞬間でした。(平成二十六年五月) |