なるほど法話 海 潮 音
生活 第27話 儀式の本質
先月につづきNHK「あさイチ」がネタです。三月九日のゲストは作家の玄侑宗久さんでした。玄侑さんはまた福島県三春町の福聚寺御住職であり、昨年の大震災の被災者のお一人でもあるわけですが、東日本大震災復興構想会議の委員もお務めです。 番組はまず玄侑さんが「復興」の「興」の字を色紙に書かれているところから始まりました。ご自分で書かれた「興」の字がアップされる中、この字は、中央に「同」の字があり、四本の手を「同」じく動かしていっせいに持ち上げおこすことを意味しています、と説明されながら、被災地では色んな理由で、皆が中々「同じ」になれないとこぼしておられました。 番組では被災地のことが色々と話題になったのですが、最後に視聴者からの玄侑さんへの質問コーナーがあり、「震災で友人を亡くした。そのことが心に重く残り、日常生活で皆の輪に入れない。どうしたらよいでしょうか」という内容の質問でした。 玄侑さんは有働アナウンサーが読む質問文をジーッと聞き終え、眉毛がピクリッと動いた後、ウーンとかすかにうなって「友人を亡くしたことを忘れたくない。しかし、皆の輪に入れるようにもなりたい」ということですね、と質問内容を整理した後、「この矛盾した両方を成り立たせるためには何らかの儀式をしたらいいと思うんです。 儀式というものは、何でもいいんですが、日常的にダラーと悲しむことを防いでくれるものだと思うんです。儀式のときだけ、その人を悲しみ、日常的には忘れることができる。そんなシステムが儀式だと思うんです」という答えでした。 なるほどうまい答えだと感心しました。これは「儀式」というものの本質を捉えた答えだと思います。「儀式」の本質は「祈り」であろうと思います。 自分なりの儀式の中で亡くなった友人を祈る。そのような儀式を毎日行えば、亡くなった友人を決して忘れることはないのであり、同時に儀式以外の時間は、亡くなった友人のことを忘れて日常の生活に戻ることができる。 しかし、その友人を忘れてしまったわけではない。毎日行う目に見える儀式によって、友人を忘れていないことを自分で確認することができる。 「儀式」ってそんなシステムだったのか、と改めて玄侑さんに気付かせていただきました。 仏教の中にも沢山の儀式があります。その儀式を表面的にながめていると、なんだろなあ、と思ってしまいますが、その本質は「祈り」だと解れば、納得しますし力が入ります。ご先祖様への儀式も、それぞれの「祈り」込めて、命を吹き込みたいものと思います。 (平成二十四年四月) |