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なるほど法話 海 潮 音
生活 第23話 禅的節電生活を
毎月地蔵講の後、三十分程度の講話をしています。難しい話が定番ですので、何か身近な話をと思い、茶道に関する話なら関心を持ってもれえるかと少し勉強してみました。
わび茶の祖とされる村田珠光(一四二二〜一五〇二)は一休宗純に参禅し、禅の修行がわび茶精神の形成に深い影響を与えたとされています。
珠光が出る前は書院台子(しょいんだいす)と呼ばれる茶の形式が盛んだったとされています。その書院台子といいますのは、中国から渡来した高価な名物道具(唐物・からもの)を棚に飾り、広い書院で行われました。炉はないので台子で茶をたて、高価な唐物など美術品を楽しむための茶であったようです。
そのような茶に対する「わび茶」を主張した珠光の茶について古田紹欽氏は「茶は禅の修行と同じように修練を積むものでなくてはならないとする要求が、茶を飲むという儀式のうえに加重されることになったのである」と説明されています。
その珠光の孫弟子に当たる武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502〜55)はわび茶を『新古今集』選者・藤原定家(1162〜1241)の「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕ぐれ」という歌を使って説明したとされています。
華やかな花紅葉(書院台子のたとえ)をつくづく眺め味わい尽くした人は、何もなくなった晩秋の粗末な茅葺き小屋(わび茶のたとえ)の味(無一物の境界)が解ってくる、という意味のようです。
紹鴎の弟子の千利休(1522〜91)は、これではまだ不十分だとして、藤原家隆(1158〜1237)の「花をのみ待らん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」という歌を使って、花(紅葉)がいつ咲くだろうかと外にのみ求める人たちに、雪で一面覆われて何もなくなった山里(=浦の苫屋=無一物の境界)にも、よくよく見ると雪間からのぞく青々とした草の芽が春をつげている。この自然(おのずからしかり、自然が持っている本来の力)の不思議こそ見せてやりたい。この無一物から全てが展開してくる不思議を不思議だと感じる心こそ「わび茶の心」であると『南方録』は説いているようです。
3・11東日本大震災・原発事故で今夏の電力不足が予想され、節電が叫ばれています。しかしその節電の方向は、どうしたら節電しながらも快適な生活を維持できるかを懸命に探ろうとしているようにみえてきます。
それでは限界があるでしょう。節電しながら快適生活をではなく、ここはひとつ、わび茶の心にならい、禅修行的な「節電生活」の試みをしてはどうか、具体策を考えてみよ、と自らに言い聞かせているところです。(平成二十三年六月)
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