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なるほど法話 海 潮 音      


科学 第 3 話  自然科学とは何か(下)    

前回はコペルニクスを取り上げましたが、今回はデカルトを取り上げます。デカルトは自然科学の基本構造を提示した人だと言われますが、そのデカルトも神学の枠内に入る人だと村上陽一郎さんは言われます。

デカルトの出発点も聖書に、神は自然を人間のすみかとして造り、そこに棲む人間は神に似せて特別なものとして造ったと説かれていることが基になています。デカルトはこの聖書の説くところを受けて、「自然」を観察される対象(客体)とし、「人間」を観察する主体として、両者を明確に区別し分離しました。

この分離が何を意味するかというと、もしも、自然が単に観察される対象にすぎないならば、もはや自然には一切の主観的要素はあり得ないことになって、対象としての自然は感情や意志をもたない「もの」と言うことになります。

対象としての「もの」が石である場合はいいのですが、生きている人間(他人は自然の一部となる)を対象とすると、その対象は感情や意志をもっているのに、そのようなものを持たない「もの」として扱われてしまいます。これが自然科学の特質と言えましょう。

デカルトの自然科学も聖書を基盤にした神学の枠を脱したものではないとされますが、これを神学から解放し、真の自然科学にしたのは、宗教的伝統によるドグマや俗信から民衆を解放しようとした18世紀の啓蒙主義者たちだと言われます。

彼らによってもたらされた真の自然科学とは、神の意志を読もうとすることではなくて、自然についての知識を、人間が世俗的な目的で自然を支配し統御するために利用できる強力な武器・道具、簡単に言えば、人間の願望を達成するための強力な道具としてとらえたもので、これが真の自然科学といわれるものであり、現代の自然科学であります。

そこには、その強力な道具をどのようにコントロールすべきかという哲学は含まれていませんから、別に立てるべきなのに、経済観念だけでその道具が動かされているところに現代の問題があると言えましょう。(平成11年12月)


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