なるほど法話 海 潮 音
           
科学 第12話  二つの時間
 
 今回はご一緒に哲学をしてみましょう。何についてかと言いますと、時間についてです。

時間といいますと時計が思い浮かびます。秒針がカチ、カチ、カチと時間を刻みます。時間とはあのことだろうと仰る方もおいででしょう。

三次元とか四次元という言葉も思い浮かびます。三次元とは縦・横・高さを持つ空間のことですね。この空間に時間を加えますと四次元になります。

物が存在するということは存在し続けているということで、そこに時間の観念が加わってくるわけです。もし時間が「0」(零)だとしたら、その物は存在しないということになりますが、現実にそのようなことが起こりうるでしょうか。甚だ疑問です。

 時間には過去・現在・未来ということが言われます。過去は過ぎ去った時間、未来は未だ来ていない時間、現在は今の時間と一応言うことができましょう。

昨日は過去であり、明日は未来であり、今日の今が現在です。しかし昨日とは何でしょうか。昨日したことを考えますと、確かに昨日は在りました。これを疑う人はいないでしょう。しかしよく考えてみますと、その昨日とは今私が頭の中で考えていることに過ぎないのではないでしょうか。未来といっても、それも私が頭の中で想像しているだけのことなのではないでしょうか。本当に在るのは現在の今だけではないでしょうか。

先ほど「過去は過ぎ去った」と申しました。新幹線で東京から大阪に向かっているとします。今、浜松です。東京駅にいた自分は確かに過去の自分です。しかし電車に乗って腕組みしている自分を見たとき、過去の自分を見ることができますか。できませんね。いつでも今の自分しか見ることができません。これが「本当に在るのは現在の今だけ」の意味です。

過去(や未来)が在るとするのは、プラットホームにいて過ぎ去る電車を見ているようなもので、過去からやって来て目の前の現在を通り過ぎ、未来へと走り去ったと思うようなもので、これは時計の針を見ているのと同じです。

ところが自分が電車に乗って腕組みをしている自分を見ると、今だけなのです。

 過去・現在・未来を認める時間は観念論的な時間です。自然科学、或いは日常生活に於いては無くてはならないものでしょう。

しかし「今だけの時間」もあるのです。林修さんの「今でしょう!」をご存じと思います。これを正確に言いますと「するのは今でしょう!」になると思います。

「今だけの時間」は実践を志す者にとっての時間論です。何かをしうるのは今だけなのです。  (平成三十年七月)