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なるほど法話 海 潮 音
人生 第9話 ある宗教学者の死生観
宗教学者である岸本英夫さんは、1954年、米国滞在中に余命半年という癌の告知を受け、以来、20数回の手術を伴う10年間の闘病生活の末、1964年に永眠されました。その間の記録を『死を見つめる心』(講談社文庫)という本に残しておられます。
岸本さんは告知直後の死の恐怖を「まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私はたっていた」と表現され、死によって、この「自分という意識」が無くなることが最も恐ろしいと述べておられます。
そして、「その死に立ち向かう最も有力な武器」は、「死後の生命の存続」(「肉体を離れた霊魂の存在」)を信じることであろうけれども、「私の近代的な知性」はそのよなものを信じさせなかったと述べ、死の恐怖に勝つ道を「残された時間を、できるだけ充実して生きること」だと考え、「それからは、ただがむしゃらに、働いた」けれども、「やはり、私は、ひまがあれば、死というものは何か、と考えざるをえなかった。
そしてこのことについて思いわずらっていたときに、」ふとした機会に、「死は、生命に対する『別れのとき』と考えるようになっ」てからは、死を、「恐怖」ではなく「悲しいこと」と考えるようになったと述懐しておれます。
この「恐怖」から「悲しいこと」への変化は重要な変化と言えましょう。「悲しいこと」は何とか耐えることができるからです。
「恐怖」として捉えられる死は、自分という意識を飲み込もうと待ちかまえているものとして未来に想像されるものですが、死を「別れ」として捉え、「悲しいこと」と考えているときには、目は確かに見ることのできる「自分の生きてきた世界」に向けられているというはっきりした違いがあると言えましょう。
そして、そのような世界からの別れ方について岸本さんは、普通の別れのときには、心の準備をすることによって悲しみに耐えてゆけるのだから、死という別れの場合にも、準備さえすれば耐えてゆけるのではないか。
その準備とは、「今が最後かもしれないという心がまえを、始終もっているようにすることである」とされ、更に「心の準備ということに気づいて見ると、ずいぶん、心がおちついてきた」と述べておられます。
また「死とは、(中略)すでに別れをつげた自分が、宇宙の霊にかえって、永遠の休息に入るだけである」とも述べておられ、「死」を「別れ」と気づかれてからの岸本さんには、ずいぶん心にゆとりが見られ、かすかに「霊」を認める変化まで見せておられます。 (平成13年12月)
音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。