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なるほど法話 海 潮 音      


文化 第3話  手入れの思想(1)    

養老孟司さんの「手入れの思想」をご紹介します。

まず、「手入れ」とは、日本文化の自然に対する典型的な態度であると仰います。

その内容は、自然を認め、それを「人工」の側に引っ張ることだとされ、その結果、田圃里山(たんぼさとやま)の風景ができあがったのだと言われます。

この田圃里山が原生林、及び都市と対比されています。原生林には珍しい虫はいるが、モンシロチョウはいない。虫が一番たくさんいるのは田圃里山である。田圃里山はある意味では生態系が最も豊かで生物が住みやすく、従って人間が住みやすい。

一方、都市とは、完全な人工環境を求める人たちが作り出すもので、野生生物はめったにおらず、だから住みにくい。

原生林という原始の自然と、都市という人工環境、これらは両極端であり、その対立が現代を象徴する。

都市生活をする人々の中に自然保護論者という人々がいるが、彼らは原生林を保護せよとは言うが、田圃里山を保護せよとは必ずしも言わない。

それに対して、日本人の祖先は、田圃里山という形で自然と人工の対立を実地に解決してきた。それが「手入れの思想」である。

この思想は、自然環境に対して言えるだけでなく、子育てについても言えることである。すなわち、子どもは自然なのであり、放置すれば野生児になってしまう。かといって「思うようになる」かというと、そうではない。毎日、心を込めて「手入れ」をしてやり、見守ってやる。それしかないのである。それを思うようにしようとするから、色んな問題が吹き出してしまう。

日本の文化は、人の自然(例えば子ども)にも、外部の自然(例えば原生林)にも、「手入れ」という極端に走らない対処の仕方をしてきたのだ、と仰っています。

ここには、日本人の自然に対する独特の捉え方があるようです。

そこで、「自然」と訳語関係にある英語のnature (客観的対象)と比較しますと、nature は、それを見る人間が常に意識されていますから、「人工」化される運命にあると言えますが、日本語の「自然」は、何か目に見えない究極的なものがあって、それが「自ずから然る」仕方で目に見えるもの(自然)になっている、と理解されています(相良亨『日本人の心』)。

つまり日本人は自然の背後に究極的なものを意識して、自然を人間の思うままに振り回せるものではないと解っているから、「手入れ」をさせていただくとなるのでしょう。

「手入れの思想」は、偉大な力は人間の側にではなく、自然の側に元々あるんだと教えてくれているようです。(平成13年3月)  

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。