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なるほど法話 海 潮 音
文化 第23話 利休と秀吉
十月二十四日のNHKテレビ「偉人たちの健康診断」を見ました。私なりに「おもてなし」の極意を見た思いでしたのでご紹介します。 まず利休から。利休の家には素晴らしい朝顔が乱れ咲いているという話を聞いた秀吉は、早速、朝顔を見に行くと伝え、出かけました。 利休宅の門をくぐり庭に入ると、朝顔の花は一つ残らず摘み取られており、異様な光景を不審に思いながら茶室に入ると、床に一輪の素晴らしい朝顔が生けてありました。秀吉はうならんばかりに喜んだようです。『茶話指月集』に出てくる逸話です。 この話は一般には、派手な茶会を好んだ秀吉の趣向から、わび茶を大成した利休趣向に傾いた話として、利休の切腹に近づけて考えられているようですが、右の番組では、本能寺の変の後、天下人となった秀吉をあの一輪の朝顔にみたて、秀吉に刃向かう者は一人もいなくなったことを摘み取った朝顔で表現していると解釈しています。 茶人利休は亭主として客である秀吉をもてなすのに、単に一輪の朝顔を引き立てるために他のすべての朝顔を摘み取ったのではなく、朝顔を使って、天下人となった秀吉を演出してみせる「おもてなし」をしたと理解したところにもてなしの極意を見た思いでした。 次は秀吉です。利休が大徳寺山門に自らの木造を安置したため、その下を通るはめになった秀吉が激怒し、天正十九年二月二十八日に利休は切腹したとされています。 その根拠となる史料『北野社家日記』には、翌二十九日に利休は御成敗となり、木像と共に首が橋にさらされた、とあるようですが、右番組では、日記を記録した天満宮の宮司が伝聞資料を誤って書いたもので、実際に現場を見た伊達家家臣・鈴木新兵衛の記録には、二月二十九日、戻橋には利休の木像がはりつけにされていたとだけ書かれていたそうです。 利休がはりつけにされた前日に書かれたとされる西洞院時慶の記録には、奈良で盗賊が捕まり京都で処刑され首が橋にさらされたとあるそうです。 天満宮宮司の用いた伝聞資料は盗賊の首を利休の首と間違えた資料だったようで、『豊大閣真蹟集上』には切腹の翌年に当たる年に秀吉が母に宛てた真筆の手紙が含まれており、そこには何と、利休の茶を飲んだと読める内容が書かれているそうです。 利休の政治的影響力の増大に内乱の火種の可能性を見た秀吉は、友人である利休を切腹させるどころか、木像をはりつけにすることで政界からの追放を公にし、本人はこっそり逃がしてやったというのが真相のようです。秀吉の配慮(おもてなし)といえましょう。(平成三十年十二月) |
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