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なるほど法話 海 潮 音
文化 第22話 三夕の和歌
「三夕の和歌」というものをご存じでしょうか。新古今和歌集の中でいずれも「秋の夕暮れ」を結びとした三首の名歌で、西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」、そして藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の三首です。 私は最後の定家の一首が一番解りやすく感じます。誰もいない海辺で見渡してみると、そこには華やかな桜花や美しい紅葉といったものは全くなく、寂しさが漂う秋の夕暮れの中に粗末なあばら小屋がぽつんと一つ霞んで見える、といった意味でしょうか。 こころ沸き立つ美しさといったものをすべて削り墜とした閑寂の中に本来の姿があるのではないかと問いかけているような気がするのですが、如何でしょう。 私はこの歌と道元禅師の「身心脱落」を重ねてみたい気がするのです。 道元禅師のお師匠さんである如浄禅師は「坐禅は身心脱落なり」と仰いました。「坐禅とは身も心も脱落することである」ということでしょうが、この「脱落」とはどのようなことであるかが問題です。 「身も心ももぬけの殻になる」ということではないでしょう。身も心もしゃんとしてあるのですが、あり方が普通のあり方でないところが「脱落」と表現されているものと思います。 どのようなあり方であれば「脱落」と言えるのかを考えるヒントとして、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』巻三に「坐はすなはち仏行なり。坐は即ち不為なり。是れ即ち自己の正躰なり。この外別に仏法の求むべき無きなり。」とあります。 私はこの「坐は即ち不為なり」の「不為」が「脱落」ではないかと思います。 中国唐代の禅僧である薬山禅師と石頭禅師との問答があります。薬山禅師が坐禅をしていると、石頭禅師が「あなたはそこで何をしているのか」と問います。すると薬山禅師は「一切不為」と答えます。 この「一切不為」について水野弥穂子氏は「人間的な作為の全くないところに真如が現前することを言う」と註記されています。 私はこの「人間的な作為の全くないところ」、これを「脱落」の意味に取りたいと思います。即ち「身にも心にも人間的な作為が脱落している」というのが「身心脱落」の意味かと思っています。 沸き立つ心の全くない秋の夕暮れの風景に見る閑寂さは、人間的な行為を削り墜としたところの幽玄さを詠っているのではないでしょうか。 それにしても身における不為はまだしも心における不為は難しいですね。(平成三十年五月) |
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