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なるほど法話 海 潮 音
文化 第19話 棟方志功さんの心
だいぶ以前のことになりますが、棟方志功さんの作品展を見に行ったことがあります。特に「釈迦十大弟子」(昭和十四年)は有名ですね。 私は特別に版画(棟方さんは「板画」と書かれます)が好きだというわけでもないのですが、たまたま見に行った作品展でとても印象に残ったのは、作品よりも会場で放映されていたビデオテープでした。 それは棟方志功さんが作品を製作中のお姿でした。大変度の厚そうな黒縁のメガネをかけ、頭にはハチマキをし、板に食いつくようにして、まるで何かにとりつかれたかのように板を削っておられるお姿です。御覧になられた方も多いのではないでしょうか。幸い今でもインターネット上でその動画を見ることができます。 そのときの会場では、作品を見るよりも、板を彫られているお姿が放映される一室で、食い入るように見ていたのを思い出します。 後日、河合隼雄さんの『宗教と科学の接点』という本を読んでおりましたら、「棟方志功が「私は自分の仕事には責任を持っていません」と語った」という一節が目に入りました。これはまたどういうことでしょうか。 河合さんが棟方志功さんのこの発言を引くのは、心理学者ユングの「自我」(エゴ)と「自己」(セルフ)の難解な学説を説明されるときの具体例として引かれているようです。 その際、日本語の「みずから(自ら)」と「おのずから(自ずから)」という言葉も引き合いに出され、前者が「自我」に、後者が「自己」に関わるとされて、「日本の芸道においては「自然」ということが非常に尊ばれる。いろいろな行為が自然に行われねばならぬといわれるが、これは即ち行為の主体を自我から自己へと譲る境地を指していると考えられる」と述べておられます。 禅においても同様の考えがあるように思われます。禅では「自我を滅却すべし」と説かれます。しかし自我を滅却すれば主体性のないヘナヘナ人間になるのではないかという疑いが起こり、そのようなことに関わりたくないと思われるのではないかと心配しています。 禅で説く「自我の滅却」は、河合さんの言われる「自我から自己へと譲る境地」の「自我」だけが問題とされ、「自己へと譲る境地」が省略されているように思われます。 「自己」とは「自然に」に通じた、自我を包み込むより大きな括りであり、自我を滅却すればするほど、行為主体は自己に移っていくのではないかと思います。 棟方志功さんは自我を滅却され、自己に移っているが故に「私は自分の仕事には責任を持っていません」と仰るように思うのですが、如何でしょう。(平成二十九年四月) |
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