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なるほど法話 海 潮 音      
文化 第18話  利休の逸話    
   
 筒井紘一さんの『利休の逸話』(淡交社)には三二四の話が現代語訳で紹介されています。その一つ「恥をかいた尊蔵」と題する話の内容は次のようです。

 ある茶人の弟子である尊蔵は津田宗及と夜咄(冬の夜、灯火のもとで催される茶事)の約束を取り付け堺におもむいた。内心、利休の茶にも招かれたいものだと思っていた尊蔵は、茶会当日の朝、茶会までまだ時間があるから、ちょっとだけ利休の茶をのぞいてこようと思い出かけていった。尊蔵が利休の家を訪れると、利休は喜んで呼び入れ、たいそうなご馳走でもてなした。利休のもてなしはとどまる気配がなく、宗及との約束のある尊蔵は気が気でなかったが、利休の熱心な引き留めに途中で帰るわけにもいかなかった。ようやくのことで利休のもとを辞し、宗及の屋敷へ駆け込んだが、家人から「今日の茶会はもう終わりました。主人は客といっしょに出かけました」と言われ、尊蔵は堺の南北で面目を失い、大恥をかいてしまった。これは、利休が尊蔵の腹づもりを見抜き、茶会に招かれている者が、時間があるからといって他所へ出かけるなど、茶人の修行としての第一歩を誤っており、もってのほかであることを教えるために、わざと馳走のかぎりをつくし、尊蔵に手間取らせたのである。私達もよくよく心しなければならないという内容です。

 さすがの利休は尊蔵がどこかの茶会に招かれているのにまだ時間があるからと自分の所にのぞきに来たなと察したようですが、そんなことをするものではないと言葉で教えるのではなく、そんなことをすればどうなるかを身を以て体験させたわけで、私はこの話を読んで道元禅師の「むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず」(『正法眼蔵』菩提薩タ四摂法)という言葉を思い出しました。

愛語とは慈愛の心を以てかける言葉ですが、道元禅師は「むかひて」よりも「むかはずして」の方がより心にしみるように説かれています。

この「むかはずして」とは誰かから間接的に聞くということでしょうが、間接的に聞くだけで効果がより増大するわけで、利休が尊蔵にしたように、言葉ではなく馳走のかぎりをつくして手間取らせるという「行為」によって相手にものを教える態度は、慈愛の心を言葉でなく行為というより大きな間接を通して教える態度といえましょう。

これはより広い意味の愛語であり、より大きな力を持った愛語といえるように思えます。人にものを教えるときの大切な視点かと思います。(平成二十七年十一月)

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