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なるほど法話 海 潮 音      
文化 第16話  感謝ということ    

 私が子供の頃は「あなたの尊敬する人は誰ですか」という質問をよく耳にしました。その答の中には有名人に混じって必ず「両親です」というのがありました。

近頃は「尊敬する人は誰ですか」という質問も聞きませんが、「尊敬する人は両親です」ということ自体聞かないように思います。

「両親を尊敬する」とは多くの場合「両親に感謝している」という意味でしょう。その「感謝」ということが最近は少なくなったような気がしてなりません。

親子の場合で言えば、親は子を養育する義務があると考え、子は親から養育される権利があると考えますと、不平不満はあっても感謝の念は起こりようがないように思われます。

親と子の関係における「子」の立場に「人間」を当てはめますと、「親」に当たるものは「自然」ではないでしょうか。私たち人間は自然の一員として自然に育まれ、自然の恵みをいただきながら今日に至っています。ですから昔の人は天地の恵みに感謝し、東天の太陽に手を合わせたのではないでしょうか。

田畑を耕しても必ずしも十分な収穫があるとは限りません。天候不順が続けば不十分な収穫でも我慢するしかありませんが、好天に恵まれれば、収穫も恵まれ、お天道様に感謝する気持ちが自ずと起こることでしょう。現在においても農家の方々は昔と変わりないことと思います。

しかし、一般的には感謝の念は薄くなったように思われます。私はその理由を世の中が余りに便利になりすぎたためではないかと密かに思っています。

世は文明の利器に満ちあふれているではありませんか。私自身、欲しい本があればネットで検索し、クリック一つで翌日には宅配便が自宅に届けてくれます。学生時代、東京に居た頃よりはるかに思うままに本が手に入ります。だからといって、その都度、感謝の念が起こるかといえば、既に麻痺しきっています。

天地の恵みは人間の思うままにはなりません。だから十分に与えられたときは感謝します。ところが、文明を操ることが出来るようになった人間は次から次へと新たな文明の利器を創り出します。昨日の利器は今日の利器ではないのです。そこには「感謝」という概念は存在しません。

「感謝」という言葉は死語となったのでしょうか。そうではないようです。五歳を筆頭に三人の子育てをしている娘が、子供の頃、必要以上に厳しかったらしい父親に向かって言いました。「愛情たっぷりに子供を育てれば、その子は必ず感謝の気持ちを持てる人間に育つし、感謝の気持ちが持てないのは愛情を注がれた経験がないからだ」と。(平成二十六年二月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。