このページは音声読み上げページです。下の[開始]ボタン(右矢印)を押すと、テキストの読み上げを開始します。([開始]ボタン(右矢印)が出ていない場合はここをクリックしてください。)


なるほど法話 海 潮 音      


仏教 第 4 話  慈と悲    

「慈悲」とは、「慈」と「悲」の両語を併記した言葉で、「慈」は他者に安楽を与え(与楽)、「悲」は他者の苦に同情し、その苦を除こうとする(抜苦)ことと説明されています。

この両語について、五木寛之さんは、最近出版された『他力』(講談社)の中で、「たとえば、オウム真理教に加入してしまった息子を、その教団から離脱させるために、会社に休職届を出して、息子の本棚にあった宗教関係のテキストを徹底的に読み、毎日くり返しくり返し息子と討論しつつ、何とか息子の信仰をやめさせようと努力したエリート商社マンの父親がいましたが、彼は、〈慈〉の心をもって息子に接していたと言えると思います。

(中略)ところが、なぜそんな教団に入ったか、そういうことをいっさい聞かずに、お前が地獄へ行くなら、自分も一緒について行きますよと、傷ついた息子の痛みを自分の傷のように感じ、その子の手のうえに自分の手を重ね、黙って涙を落としている母親は〈悲〉の心といえるでしょう」と述べておられます。

「悲」について、良寛さんにも同じような話があります。良寛さには馬之助という甥がいましたが、いい年をして遊んでばかりいるので、その母親から意見をしてくれるようにたのまれるのですが、良寛さんは人に意見をするというようなことがどうしてもできず、やっとのことで馬之助に旅支度のわらじを結んでくれるよう頼みます。そのとき馬之助は、良寛さんの目からこぼれた涙に気付き改心したというお話です。

現代の医療現場に目を移すと、医学の力で患者さんの病気を治そうとする「キュア」(治療)が「慈」に当たり、既に治療不可能となり、死と向き合わざるを得ない末期のガン患者さんへの心の「ケア」(癒し)が「悲」に当たるかと思います。だとすれば、「ケア」というものは、患者さんのそばにあって、ことばはなくてもいいから、涙を流せるほどの「こころ」がなければならないことになりましょう。(平成11年3月)


音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。