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なるほど法話 海 潮 音      


仏教 第 3 話  無常の哲学    

『涅槃経』に「諸行は無常なり、これ生滅の法なり。生滅滅し已りて、寂滅を楽と為す」という無常偈と呼ばれる短い偈文があります。

「諸行は無常なり」とは、我々が感知している世界(諸行)は無常だということです。無常とは生滅のことだと説いてありますが、ある状態が生じてもやがて滅し、別の状態が生じて、それもやがては滅す。そのように生滅を繰り返し、状態が変わっていくことが無常ということです。

ところが、まわりの世界は無常、即ち変化しているのに、我々の心はその変化について行こうとしないのです。たとえば、ここにガラスのコップがあります。これで尿の検査をしたとします。そのコップは汚れますが、洗剤で洗い、熱湯消毒もすれば、完全に清潔になります。しかし、そのコップでビ−ルをどうぞと言われても、なかなか飲めるものではありません。

一旦汚れたコップに対しては、いくら洗っても汚れのイメ−ジをぬぐい去れないのが人間だからです。コップは不浄の状態から浄の状態に変わっているのに、我々の心はその変化に即して変わることができず、不浄の状態にこだわってしまっているのです。ここに「苦」というものが生じる理由がひそんでいます。

そこで経典には「(浄・不浄という状態の)生滅が滅し已りて、寂滅なるを楽と為す」とあります。浄・不浄のありのままを知って、それに心を合わせることができれば苦は起こらず、浄・不浄は静まっているも同然で楽である、という意味でしょう。

早い話が、エレベ−タ−に乗ってしまえば、自分も一緒に動くわけですから、エレベ−タ−の上下の動きは分からないのと同じです。要は、不浄のものは不浄として、浄のものは浄として素直に受けとめて、そのように扱えばよいわけです。

自分の両手を思い出して下さい。どんなに汚くなっても洗えばなめることだってできるではないですか。世間に対してもそんな調子で出来ればきっと素晴らしい世界が開けて来るでしょう。(平成6年8月)


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