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なるほど法話 海 潮 音      


仏教 第27話  金木犀   

   
 萩ではお檀家さんの月命日にご自宅にお伺いいたし仏壇で読経いたします。山口県内でもこのような風習を残しているところは余りないようです。

毎月の命日の供養を月忌といいますが、月も一致する命日を祥月命日といいます。

あるお檀家さんの御先祖様に十月十日が祥月命日の方がございます。そのお檀家さんの仏間から庭が見え、祥月命日の十月十日には必ず金木犀が満開なのです。そんなことで金木犀は十月十日頃咲くのだということが頭に残りました。

決まってその頃花が咲くといえば、彼岸花ですね。見事にお彼岸の中日には彼岸花が満開です。自然の営みというのは本当に不思議ですね。

私は子供の頃から思っていたような気がするのですが、「真理というのは自然の中にある」と今でも思っています。

 仏教ではこの真理というものを人間と対比した形で捉えているように思います。

人間の特徴は「考える動物」といわれるところに顕れているでしょう。この「考える」を仏教では「分別」といいます。

世間ではこの「分別」のことをよい意味にとって「あの人は分別がある」(あの人は思慮深い)などと使っています。ですから、若者に向かって年配者が「分別のないことをするな」と叱ったりします。

しかしこの「分別のないこと」すなわち「無分別」を仏教では悟りの中身と考えています。勿論、若者の無軌道な行動を意味するわけではありません。文字通り「考えることが無いこと」を意味します。かといって失神状態をいうわけでもありません。

どんな風に無分別なのかといいますと、たとえば道元禅師は「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふる」(花は私どもが惜しいなと思う中で散り、草は私どもが憎々しいと思う中で生い茂る)と述べられますが、この「惜しいという思い」「憎々しいという思い」が無いのが無分別でしょう。

このような思いが無いということは、「花は散るもの」「草は生い茂るもの」とその「ありのまま」を受け入れることかと思います。

その「ありのまま」が仏教のいう「真理」ではないかと勝手に思っています。

そのような「真理」は「自然の中にある」といってもよいのではないでしょうか。

 一般には自然科学が解明するものを真理という傾向があるように思います。しかし人類はその真理らしきものを自分たちの思いを叶えることに利用しているだけではないでしょうか。

人間の思いを自然に押しつける行為であり、ありのままを受け入れる仏教と逆行しています。これが自然破壊にも繋がっているように思うのですが。(平成二十九年十二月)
 

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