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なるほど法話 海 潮 音
仏教 第20話 悟 り
智慧の獲得とは、苦を起す原因である煩悩の克服を意味します。
煩悩は大別すると貪・瞋・癡という三つです。貪は、好ましい状態の常住なることを求める煩悩であり、瞋は、好ましくない状態が常にないことを求める煩悩であり、そして癡は、無常(常住でないこと)を理解できない煩悩をいいます。
貪と瞋とは表裏の関係にあり、ともに常住の性格を持っています。その両者の常住の性格を癡(無常を理解できない煩悩)が支えているという関係にあります。
従って、癡という煩悩を克服すれば、貪と瞋の両煩悩も働かないことになります。
要するに、全煩悩を攻撃しようとする場合、癡にねらいをつけて攻撃しさえすれば、煩悩全体が作動不能となるわけです。智慧とは、この癡という煩悩にねらいを定めた武器であるといえましょう。
そこで改めて智慧とは何かといえば、無常なるものを無常なりと心の底から理解することとなります。
一方、癡という煩悩は、無常を理解できない煩悩のことですから、「智慧の獲得」は同時に「癡の克服」であり、更には「煩悩全体の克服」ということになります。
智慧とは、無常なるものを無常なりと心の底から理解することですから、たとえば、赤ちゃんの肌はつるつるですが、年をとればしわくちゃの顔に変化する、と理解することであると一応はいえましょう。
しかしこれは客観的事実を理解しているだけで、自分のことがぬけています。ですから道元禅師の「人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。・・・身心を乱想して万法を辧肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。」という注意がなされることになります。
客観的事実が無常だと解っても、見ている自分自身については常住なりと錯覚しているのが常であるという注意です。
中年のご婦人は次第に増えてきたしわを隠そうとお化粧に熱心です。でもおばあさんになるとある時からお化粧をされなくなる方が多いようです。しわだらけの顔でよしと受入れられたからでしょう。
即ち、「つるつるの顔がいい」の心から「しわだらけの顔でよし」の心にご自身の心を変えられたからでしょう。
これは無常を無常のままでよしと受入れることであり、無常を無常なりと知る智慧に他なりません。
この智慧の獲得によって開ける世界が悟りであります。道元禅師の「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」という言葉を「無常なる現実(万法)を受入れて自分の心とするは悟りなり」と訳して味わってみてはいかがでしょうか。(平成18年1月)
音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。