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なるほど法話 海 潮 音      


仏教 第18話  煩 悩    

 「迷い」は「自分の一方的な思い」がその原因であり、また「苦しみ」を伴うなどのことを前回お話しました。

「一方的な思い」とは「勝手な思い」ともいえましょうが、もう少し詳しく掘り下げてみましょう。

 「一方的な」とか「勝手な」というのは、「目を閉じて対象を全く見もせずに」という意味ではありません。

結構関心を向けて見ているのですが、その対象に対して「好ましい」「好ましくない」という判断を「一方的に」あるいは「勝手に」行っている場合をいうのです。

たとえば、鏡で自分の顔をのぞきこみ、しわの増えたのを見てゾッとしたとします。そのようなとき、「老い」ということに「好ましくない」という判断を下したのだと考えられましょう。

あるいは、可愛いお孫さんがいて、這い這いをし、立ち上がり、歩き始め、ことばをしゃべるようになったのを見て、思わずニッコリしたとしましょう。この場合は「好ましい」という判断がなされたと考えられます。

子どもの変化は成長といい、中高年の変化は老化といいますが、同じ人間が生まれて死ぬまでにたどる変化に過ぎません。

これを私たちは、ある場合は「好ましい」といい、ある場合は「好ましくない」といいます。このことが「一方的な」とか「勝手な」という意味です。

私たちは「好ましい」と思ったものや状態に対して、それを自分の方に引き寄せ、いつまでもこうあってほしいと思いますが、これが「むさぼり」(貪)という煩悩であります。

また、「好ましくない」と思ったものや状態に対しては、それを払いのけようとします。払いのけようとしているのに、それが降りかかってきますと腹を立てます。これが「いかり」(瞋)という煩悩であります。

そして、子どものうちは成長といい、年をとってからは老化といわれる人生における変化は、一刻たりとも止まることなく常に変化し続けます。にもかかわらず、私たちは若くてピチピチしているときを好み、あげくの果ては人生全体が若くてピチピチした状態でなくてはいやだとダダをこねたりします。これが「おろかさ」(癡)という煩悩です。

これら貪・瞋・癡の三つを三毒(三大煩悩)といいます。貪と瞋とは方向の違う感情的煩悩ですが、癡は貪・瞋の二つの煩悩を発動させる知的煩悩です。たとえば「人生は常に変化する」という真実を分かろうとしない無知をいいます。

この無知を克服し、真実が分かれば、貪・瞋の両煩悩は自然に起こらなくなるという構造を三大煩悩は持っています。この無知の克服が智慧(如実知見)の働きです。(つづく)(平成17年11月)

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