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なるほど法話 海 潮 音      


仏教 第17話  迷 い    

 人が迷っているとき、その人は迷いから脱すべきでありましょう。そのためには、いま自分は迷っているということを自ら知らねばなりません。

しかし、夢を見ている人が自分はいま夢を見ているということを自覚できないように、迷っている人が自分は迷っていると自覚するのはなかなか困難なように思われます。

しかし、迷っている場合は、夢と違って、「あなたは今迷っていますよ」という迷いを知らせる何らかの兆候があるように思われます。

それは「苦しみ」という兆候ではないかと思うのです。すなわち、迷っているときは苦しみを伴っていると思うのです。

 それではなぜ迷っているとき苦しみを伴うのでしょうか。

たとえば「恋は苦しいもの」といわれます。恋は男が女を思い、女が男を思うのですが、相手の思いを確認して思うのではありません。そんなことをすればしらけてしまって恋は成り立たないでしょう。

相手がどう思おうと一方的に思うのが恋というものです。一方的であれば思い通りにはならないに決まっています。だから「恋は苦しいもの」ということになるのでしょう。

「苦」とは「自分の思うままにならないこと」という意味ですが、自分の対象をよく調べもせずに勝手にこあってほしいと思うために、思うままにならないという事態となり、それを「苦しい」と表現しているわけです。

「迷い」とは、相手(対象)を確認せずに一方的に思うときに「迷い」となります。

迷いも夢も「自分からの一方的な思い」という点では似ていますが、迷いには現実の明確な相手(対象)があるという点が異なります。そのため、自分の思いと相手(対象)との食い違いから「苦しみ」が起こりますが、夢ではそのようなこと(現実の苦しみ)は起こらないのが普通でしょう。 

 道元禅師はこの「迷い」について「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす」と述べられます。「自分の方から一方的に対象をこのようにしてやろうと思うのが迷いである」という意味かと思います。

先ほど述べましたように、迷っているときは苦しみを伴うわけですから、苦しいと感じたときには、自分はいま迷っているなと気づくことが大切かと思います。

そして次に迷いから脱する方法を考えるべきでしょう。「迷い」とは「自分の一方的な思い」が原因なのですから、いま問題となっている自分の対象をよく知ることです。

「よく知る」とは「ありのままに知る」(如実知見)でなくてはなりません。これが「智慧」といわれます。(つづく)  (平成17年10月)

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