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なるほど法話 海 潮 音
仏教 第16話 生 死
近年は癌の告知ということが問題となり、「死生観」という言葉をよく耳にします。道元禅師も『正法眼蔵』生死巻を書いておられますので、それによって禅師の死生観を窺ってみることに致しましょう。
仏教で説く「生死」(しょうじ)という言葉は単純に生と死という意味ではなく、「サムサーラ」の訳語で「輪廻」とも訳され、「生まれ変わり死に変わる苦しみの世界」という意味です。
仏教では「苦しみ」の原因を「迷い」としますので、苦しみの世界は迷いの世界でもあります。
苦しみの最たるものは死の苦しみでしょうから、癌の告知を受け、あと半年の命ですと言われれば、苦しみのどん底に突き落とされたことになりましょう。
道元禅師はそのような苦の世界である「生死」を離れる方法をこの「生死の巻」で説かれているのです。
道元禅師は、苦の世界であり離れるべき世界である「生死」を「この生死は、即ち仏の御いのちなり」と述べておられます。
これはまたどういうことでしょうか。更に続けて「これをいとひすてんとすれば、すなわち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふなり」と述べられます。
「生死」をいやがっても、それにこだわっても、どちらも仏の御いのちを失うことになると言われるのです。
「生死」とは苦の世界かも知れませんが、私たちが生きている世界です。苦しいこともありますが楽しいこともあります。私たちは本能的にその世界にしがみつこうとします。
しがみつきつつ、苦しい時はいやがり、楽しい時はこのままいたいとこだわります。道元禅師はそのような私たちの態度がいけないのだとしかっておられます。
さずかった命は苦しかろうが楽しかろうが、「この生死は、即ち仏の御いのちなり」と心に決めて、そのままにいただき、ごちゃごちゃ言わず、いのちの在りようの通りに生きるとき、このようにあってほしい、あのようにあってほしいと思わないのですから「苦しみ」は起こりようがありません。私たちの心は平安そのものとなっているはずです。
このようなことを道元禅師は「心を以てはかることなかれ、ことばをもつて、いふことなかれ。ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」と述べておられます。
この「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて」とは坐禅の実践かと思います。 (平成17年9月)
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