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なるほど法話 海 潮 音
仏教 第13話 愛語について
愛語について、道元禅師は「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」と述べられ、更に「慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり」と述べられますから、愛語というのは、人々への慈愛の心に基づいた言葉であり、その慈愛の心とは、自分の赤ん坊に向けるような心、我が子が溺れそうになれば無条件で助けに飛び込むような心、そのような心による言葉が愛語と言えましょう。
また禅師は「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」とも述べられます。
ここに言う「廻天」とは、高橋賢陳氏によれば、禅師の『学道用心集』に「忠臣一言ヲ献ズレバ、シバシバ廻天の力アリ」の「廻天」であり、無益な工を起こそうとした唐の太宗を臣の張玄素がいさめて止めさせた一言が「天子の考えを変えさせる」力があったと解釈されています。
ところで、そのような一言が何故に愛語なのでしょうか。
高橋氏は「国民の実情を思う慈悲心から進言した」からだと解釈されていますが、それは「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」という道元禅師の言葉に基づいているわけです。
ところで、仏陀の十大弟子中、ナンバー1の大迦葉とナンバー2の阿難とは性格のかなり違う二人だったようです。
大迦葉は厳しい修行に励んで頭陀第一と言われ、阿難は仏陀のいとこで常に仏陀に付き添い世話をしていたため仏陀の説法を聴く機会が一番多く多聞第一と言われました。
仏陀亡きあとのある日、大迦葉は阿難を呼び、仏陀生前中の阿難の行為に五つの過失があったことをとがめ、阿難に懺悔するよう求めました。
阿難は指摘された五つの過失のそれぞれについて、正当な理由があり、決して過失ではないと信じていましたが、まげて過失と認め懺悔したと伝えられています。
阿難は何故に自分をまげてまで懺悔したのでしょうか。
実は、教団の戒律規定に、疑念がもとで教団が分裂するかも知れないときは、疑いをかけた方も必要以上に追求してはいけないし、疑いをかけられた方も他を信じて自分の罪を認めるべきであるという趣旨の規定があったからです。
阿難は教団を分裂させて修行者を悲しませたくないという慈悲心から愛語の懺悔をしたと言えそうです。
このような阿難の行動を「長い物に巻かれろ」的な行動だと誤解しないで下さい。「巻かれろ」的行動には下心がありますが、阿難の行動には下心はありません。あるのは、自分よりも他の修行者を気にするやさしさでしょう。(平成14年7月)
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