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なるほど法話 海 潮 音
仏教 第11話 布 施
布施(人に施す)・持戒(戒律を守る)・忍辱(苦難を耐え忍ぶ)・精進(仏道に励む)・禅定(心を統一する)・智慧(真理を悟る)の六つの修行法を六波羅蜜といいます。布施だけは他者にかかわる修行ですが、あとは大体、自己一身上の修行と言えましょう。
六波羅蜜の他に、「四摂法」(ししょうぼう)という修行法もあります。こちらは、布施・愛語(人にやさしい言葉をかける)・利行(人のためになることをする)・同事(人と同調する)の四つで、いずれも対他的であり、人間関係上の修行法となっています。
道元禅師は『正法眼蔵』の「菩提薩K四摂法」という巻に、この「四摂法」を詳しく解説しておられます。
道元禅師は、永平寺という深山の道場で世間を離れて坐禅修行された方というイメージがありますが、実は、他者の救済ということを一生考え続けられたお方でもあります。そのことが対他的な修行法である「四摂法」の解説によく現れていると思います。
禅師は四摂法の「布施」を、「布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふ、へつらはざるなり」と説明されています。
すなわち、「布施」とは「不貪」であり「不諂」であるというのです。「布施」とは、具体的には人に物を施すことですが、物を施すという行為の本質は、自分の貪りの心をなくしていくところにある、という解釈だと思います。
一方、「不諂」については、「へつらわないこと」と「布施」とがどのように結びつくのか少し考えてしまいますが、「へつらう」という行為は、気に入られようと相手の機嫌をとることだ、と説明されますので、人の心を貪るのが「諂い」と考えれば、「不諂」も「不貪」と同じように考えることが出来ましょう。
ところで、貪るとか諂うというような言葉は、票集めのためなら何でもするという悪徳政治家を連想してしまいますが、道元禅師は、そのような者のまねをしてはいけないと言っておられるのではないでしょう。
考えてみると、「貪る」も「諂う」も共に自分をデンと据えて、その自分に物や心を必死に引きつけよとする行為です。そういう自分に引きつける行為を止めなさいというのが「不貪」であり、「不諂」であるのだと思います。そして、そのための具体的な行為が「布施」なのだと思います。
だから「布施」とは、「人に物を施す」ことですが、「物を施す」ことよりも「人に」の方に力点があり、他者への行為によって自己を忘れていく、ということに意味があるのだと思います。 (平成14年5月)
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