堀内周辺

北の総門 平成16年(2004年)に復元。藩政時代に、中の総門、平安古の総門と共に城下から三の丸に入る城門として設置されました。日本最大級の高麗門です。
田中義一銅像 13歳の時新堀小学校の代用教員に登用される。萩の乱にも参加、後陸大に進学、大正7年以降陸軍大臣・大将とすすみ再び陸軍大臣となる。大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣を兼任する。
萩博物館 平成16年(2004年)「まちじゅう博物館」の中核施設として開館しました。「萩」というテーマに即して、萩に関するあらゆる資料を収集・保管・展示し、又高杉晋作の関係資料も数多く展示されています。
天樹院跡 萩藩主毛利家墓所
天樹院墓所は
毛利輝元の墓所で、輝元と夫人及び殉死者長井治郎左衛門の墓石3基があります。以前輝元の隠居所、四本松邸のあったところで、彼の死後天樹院(輝元の法号)が菩提寺として建てられましたが、明治2年(1869年)廃寺となり墓所のみとなりました。
口羽家住宅 なまこ壁と白壁の美しい長屋門で、江戸藩邸の門を拝領し移築したと伝えられる。口羽家は寄組(家老に次ぐ重臣)で石見国邑智郡口羽村の領主だったが、関ヶ原の敗戦後毛利氏に従い萩に移った。主屋の座敷と奥座敷の間に武者隠しと見られる2畳の「相の間」が設けられている。主屋の座敷から庭を隔てて、橋本川や対岸の玉江の景色が眺められる。
鍵曲(かいまがり) 敵の侵入や攻撃に備えるために左右を高い土塀で囲み、見通しがきかない鍵の手に曲げて迷路のようにした。藩政時代、このあたりは重臣たちの邸宅が立ち並び、明治時代以降ほとんど解体され夏みかんの畑となっていった。口羽家住宅のそばの鍵まがりは、道路も舗装されず、往時の趣があります。
土塀と夏みかん 明治9年(1876年)小幡高政が、維新によって特権を奪われ生活苦の士族を救済するために夏みかん栽培を奨励した。以後萩の主要産業に成長していく。小幡の功績をたたえ、平安古に柑橘公園が作られている。明治23年(1890年)に建立された、夏みかん栽培発祥の地として記念する、「橙園之記」と題した碑がある。
(解説板、萩のまちを歩くより)

萩城外堀は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀で、元和8年(1622年)に完成したようです。堀内は、外堀で区切られ最も城に近い地区です。重臣達の屋敷が軒を並べていました。今も土塀や石垣の続き当時の面影を偲ばせます。重要伝統的建造物群保存地区になっています。