浄蔵が或る日 村人に語った。「自分は久しい間 皆から供養を受けた。結ばれた縁はどうして浅かろうか、仏道を修業して一切の人々を救い無上の道を求めようが為である。自分が死んだ後、もし塚に向かって願い求めることがあれば、自分はその人の願いのままにことごとくこれを叶え、縁を億万の人々と結び、ともに三会の暁に会することこそ我が本願である」 と。

 康保元年十一月二一日 御年七四才にして安らかに円寂し
 その夜寺のあたりには おびただしい光が輝いたので、村人は出火であると驚き、我も我もと馳せ登ってみれば、光明の中に不動明王の尊体をあらわし、児童二人を左右につき従って霊香かんばしく花が降りそそいでいた、
 遂に西の空へと消え入り給うた。   

人々はなお父母を慕う思いでねんごろに葬礼をとり行い、それ以後御供え物をして、どのように忙しい時でも どのようにさし迫った事態の時も必ず御祭りを行い祭事祈願して、もろもろの願いは たちどころに満たされたという。

 今でも続いていますよ。浄蔵貴所様 合掌

古樹はうっそうとして中に九折れの狭い道があり 左右の景色は尋常でなく大きな岩がそびえたって麓を流れが洗い深い淵には龍神が住むようなけはいである。あれこれと風景を眺めると、又目を驚かすほどの岩が横たわっている。登ってみると一段高い所に石造の観音菩薩が安置してあり、その不思議なさまは金輪際から湧き出たのではないかと、さては光明はこの所からであったに違いないと思いその夜はそこで泊まった。
夜中夢の中に 何処からともなく光明が輝くに見えて あたりに麗香が漂い、観音菩薩が現れ給うて 金銀宝石の首飾りも鮮やかに、何びとも喜び仰ぐ御姿で浄蔵に申された

「御身はもともと並の人ではない、私心のために姿を凡夫に変えて真言三蜜の奥義を極めたとはいえ、悪い因縁によって一度は俗性に堕ちた。然し再び不動明王の尊体を仰ぎ山伏の姿となり 様々に不思議を現してこの世の苦しみに悩む民衆を救う為に諸国を巡ることは、本願を遂げ殊勝なことである。然しながら人の寿命には限りがある。そなたも七十才に及んだ。ここは浄蔵第一の霊地である。願わくはこの地にとどまって心身を安楽にし弥勒三会の暁を待たれよ」

浄蔵は夢から覚めて眼を開いてみると、光明は未だ消えやらず霊香も薫しくまだ残っていた。   浄蔵は菩薩の御跡を伏し拝み歓喜の涙を流し俗世に生きる民衆はどうしてこのような有りがたい御姿を拝する事が出来ようかと、
 この地に住んだ。

 村人らは生き仏の如く浄蔵を敬い、我も我もと食物などを運んでもてなし麓に寺を建てた。  浄蔵はたいそうお喜びになり、心静かに終業に励んだ。

 

 次に長州の高野山(高山)に登って黄帝様のあらわれられた御所を拝まれ、弘法大師の創造し給うた八相権現に参り、暫くこの地に留まりたいと思い、
 先ず四方の景色を見ると峯の高いところは常に白雲が山の腰を巡り、北の海は漫々と水をたたえ九州、朝鮮の雲が往来し、幾百という島々は常の山とは異なり

「三千世界は眼前に十二因縁は心の底」と昔歌に詠まれたのはこのようなものであろうかと感嘆した。  

また 向こうの山を見ると西の方にあたって山間に一つの光明があらわれた

これは不思議なことと思い、光を尋ねてゆくと

 かくて年月がたつうちに、浄蔵は思うに釈迦はこの世の栄華や楽しみを思い捨て、難行苦行をして遂に悟りを開かれた。と 
 ああ自分はいったい何たる ありさまか、と涙を流して嘆いていたが、

 天徳元年の春、六六才にして妻子を捨て、忍んで都を出て 不動明王の尊い姿を学び、山伏の姿となって 霊仏霊社を巡拝し再び出雲大社に参詣し、神に向かって「昔神の御結びによって思いもかけず俗性の家に堕ちたとはいえ、これはすべて、前世の悪因縁罪業のためでありましょう、願わくば未来は必ず真実の悟りの都へ帰らせてください」
と涙を流して悔やみました。

 それより白州大仙、石州の当麻諸山の霊地に参詣され、

 その頃京中の者がうわさし合うには、八坂の塔の傾いた方向に必ず凶事がある。浄蔵は神人であるから、これに勅を下して対処されるにちがいないと云い合った。
 浄蔵はこれを聞いて「自分は妻帯の身である今、どのようなものであろうか」まずおのれの法力を試みようと二人の児をつれて鴨川のほとりに出て水に向かい、二人の児を左右において水に向かって祈ると、水は忽ち逆に流れて三条、五条の橋の下は干あがって白い河原となった。
 そこでこのありさまなら心配ないと勅に応じた。天暦十年六月二十一日、浄蔵が八坂の塔を祈念するということが京中に聞こえたので、貴賊男女誰一人として見物しない者はなかった。
 浄蔵は二人の児を左右に置き 塔に向かって暫く持念すると、西の方から微風が吹き来たり、
塔は揺れて振動し、吊るされた宝鈴が鳴っていたが、傾いた塔は忽ちまっすぐなもとの姿にかえった。
 見物の全ての人々喜び感嘆せぬものはなかった。
 上下万民ともに浄蔵を崇め敬い、神人であるとか生き神様、生き仏と尊んだ。

   浄蔵がその妃をよく見ると咽に疵があるのでそのわけを問うと、妃が答えるには「私はもと下鳥羽のものです。この疵は或る僧のせいです」と云う。浄蔵は「さてはあの時の女性であったか、因縁のなす所はのがれることができない。もしこれを辞退したらどのようにな凶事が起こらぬとも限らぬ」と思い遂に勅に応じて 妃を妻とされた。 思いなやむうちに二人の子をもうけた。

 毎年十月には日本国中の神々が相会してよろずの政事をなし給う月である。浄蔵が床の下に伏してその有様を聞いておられると、会談は皆男女の縁を定められることであった。一人の神が云われるには「ここに居給う浄蔵には誰をめ合わせたらよかろうか」と。他の神が「京の下鳥羽の仁直というものの娘がよかろう」と云うと諸神は皆これに賛成された。浄蔵はこれを聞いて「自分の心は鉄石の如く堅い。どうしてそのようなことができようか」と思った。
 その後諸所を巡礼して密かに帰京した時下鳥羽まで来るとしきりに足の病が起こり、やむなく或る家に入ったところ、その家の主人は丁重に迎えて宿をとらせた。そして通された座に着くと一人の女性が出て給仕し、夜中になるとその女性は いとも懐かしげに寝所に入って来て挨拶するので、浄蔵はふと出雲大社のことを思い出して この家の名を問うと、
女性は、「下鳥羽の仁直と申し私はその娘」と云う。
浄蔵は驚いて「さては我が為には天魔である」と叫んで手許に引き寄せ剃刀で咽を引き切って外へ逃げた。
然しその傷は浅手であったので、その後 上皇の目にとまり、宮中に召され妃となり、
寵愛をうけるようになった。それから
その妃が狂気の病にかかられ、誰にも治せず 浄蔵は勅を受けて宮中に入り、法人を祭り、先ず妖怪を降ろし妃を縛ると病は忽ち癒えた。浄蔵が御殿の内に入ると、上皇は思わず立ち上がって浄蔵を拝み給うた。浄蔵のような者が、これから先現れる事は無いので、妃を賜ってその子孫を残させよう」とて妃を下しめ合わせた。
 

延喜九年藤原時平は、菅原道真に無実の罪を着せ、大宰府に左遷させました。
無念の内に無くなった道真の恨みを受けて時平は、病の床に伏せてしまいました。
そこで浄蔵を召して持念させると、時平の両方の耳から青龍が頭を出して、
浄蔵の父三善清行公に告げて云うには

「我は天章に告げて無実の罪に陥れた者の恨みを報いるのである。
しかし貴子浄蔵の法力は私を抑えた。
願わくば時平に厳しい戒めを加えてこらしめよ」

と云ってひそかに浄蔵を去らせた。

浄蔵が門を立ち出ることわずかにして時平は忽ちに死んでしまった。

天慶三年正月、勅命により大蔵徳法の修法を行い、迷賊平将門を降伏せしめた。

 十二才の時、寛平上皇が西京にお越しになられ、洛中で浄蔵をごらんになってたいそう喜ばれ、
弟子として叡山に登らせて受戒せしめられた。
 上皇は、その才能をたたえた。
もとより書物に通じていたので忽ちその奥義を極めることが出来た。しかして顕蜜、悉雲、天文、医法、弦歌、文章、技芸等ことごとく通ぜぬものは無く、中でも修業によって呪力はいっそう高まった。
 

 その当時毎年七月十五日に修行者が集まり霊角という法力を戦わせる催しがあった。修行者の中に同じく神霊の力を持つ者があった。その修行者と浄蔵は同時に出て、先ず浄蔵が石に対して祈念すると石はみずから躍り上がって上下した。修行者もまた祈ったが石は動かなかった。両者互いに持念すること久しくするうち、石は遂に中程から割れて二人の前に動いて来た。

 この神変不可思議の現象に民衆は皆目を拭うて驚嘆した。


 帝が御腰を病まれたので浄蔵が加持祈祷を行なうと御病は忽ち癒え給うた。

 

 応和三年八月、空也上人により六波羅のお寺で「慶讃金子大般若経多会明徳」があり、
このとき物乞いが夥しく集まった。
その中に一人の比企の姿をした者がいた。
浄蔵はこれを見て大いに驚いて上座に導いたが、この人は 辞退もせず言葉も発しない。
浄蔵が一杯の飯をさし出すと、飯四斗ばかりを食いつくしたので又すすめるとさらに食い尽くした。民衆はこの比企があまりに大食なので怪しんで見守るばかりであった。
そこで浄蔵は加持して見送り立ち去らせた。
後で見れば飯は元の通りになっていた。
或る人がこのわけを聞いたので浄蔵は 
「あれは文殊大師が仮に姿を現されたのである」
と答えた。
居合わす者は皆々感嘆して伏し拝み、
これ以後人々は なおいっそう浄蔵を敬い
浄蔵もまた 神仏が人の姿となって現れているのではないかと怪しんだ。
浄蔵も又思うに、この地に住んでいたならば驕慢な心が生じるであろうと云ってひそかに王城を出て 諸所の霊地を巡礼し、
 たまたま十月出雲大社に行くと

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萩市で一番のパワースポット
鏡山神社の浄蔵貴所塚

 時は今から千百年余り前、平安時代のお話です。浄蔵貴所は、諌議太夫殿中監三善清行公の第八子である。母は嵯峨天皇のお孫で、夢の中で剣を呑むと見て懐妊し、仁和三年三月八日出生、
その時、室内に光明が輝き霊香が漂ったと伝う

四才にして千字文を読み、一を聞いて十を知り,七才にして出家を望んだ。
 殿中ではこれを聞いて「汝が三宝の数に入りたいのであらば一つの霊力を示せ、さもなくば先々業を失うであろう」と告げた。
 浄蔵が答えて云うには「厳しい云いつけをどうして背くことがありましょうか」と。
 時あたかも春の初めで庭には梅が咲き誇っていた。浄蔵は戸外に出て天に向かって神人を呼び、梅一枝を折り取らせて献上した。
 殿中の人々はみな驚き怪しんで誰も出家をとめる事が出来なかった。それより諸所の勝地に詣でて修練を重ね或いは稲荷山に住んで神童に花を採らせて過ごしまた。
  浄蔵が熊野に詣でたとき父三善清行公が死去した。浄蔵は、これを途中で聞いて馳せ帰ったが、すでに五日が経ち葬礼は出発した。

 浄蔵は北橋の上で葬礼に出会い、その場で加持されると忽ち蘇生された。  

 蘇った父はその場で浄蔵を伏し拝んだ。
  親として子を礼拝したのである。

   故にこの橋をもどり橋と云う。


浄蔵貴所の縁由を1月1日10時より
浄蔵貴所塚参拝の後、
レクチャールームで紙芝居を行います。

おしるこ、しし汁、お寿司、の御接待が有ります
温まってください。
お越しを御待ち申しています。























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